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- 普通に仕事の指導を行ったら、パワハラだと人事に訴えられました。 私が悪いのですか? 別に怒ってはなくて、こうした方がよいよ、ということだったのですが。
- 塾代が払えない!! 私はギリギリ扶養内のパートをしている主婦です。 旦那がケチで毎月の食費と称して10万を渡してくれますが、それ以外の出費は私なんです。
- 旦那が、昨日会食があり2次会は絶対行かないから9時には帰って来るよ。と言っていたのですが、結局帰って来たのは12時半でした。 全然怒っても無かったですし、付き
【泰緬鉄道】~死の道
①
盛岡に暮らす駒井さんはタイの捕虜収容所に出征した父の事を調べ続けていた。
東京の大学教授がイギリスの戦犯裁判の資料を入手したという新聞記事を読み、父の記録を一部送ってもらったのだ。
読んで行くうちに父の収容所で事件が起きていた事が分かった。
昭和18年8月、駒井さんの父は捕虜が密かにラジオの受信機を作り、アメリカの放送を聞いていたのを発見。
収容所を揺るがす一大事件となった。
副官だった父は上官の収容所長の命令を受けて取り調べに当たり、2人が死亡、5人が重症と記されていた。
父に命令を下した所長は無罪となっていた。
駒井「上官が知らないという事はないでしょう。しかもすぐ上の上官が…。全部報告が上がる訳だから。日本の軍隊というのは上から下に行き、下から上に行く。私はやってない、じゃあ次の上、私もやっていない、そうやってどんどん上に責任が行く…。そうすると最後は天皇陛下にいってしまう。だから何処かで誰かが止めないと駄目なんですよね。そういう事を軍人というのは知ってるから、俺で止めればいいのかと、父が責任を取ったんじゃないかと思うんです」
駒井大尉の取り調べを受けた捕虜の中には、エリック・ロマックス将校(当時24歳)も含まれていた。
駒井大尉の尋問に白状しなかったロマックス将校達は憲兵隊へと回された。
憲兵隊の拷問に立ち会った元陸軍通訳の永瀬隆さんは、その残虐ぶりをこう証言する。
「顔面にタオルをかける訳よ。そいで水道の水を上からかけるとタオルの目の荒いのが表面張力によって締まってしまう訳。そうすると息が出来なくなって口の中に水がガーッと入って行く訳。つまり溺れさせる訳よ。そうすると腹がブーッと膨れるんだ。そしたらその将校が【マザー、マザー】って泣くんだよ。最初はこっちも抵抗があるんだけど、二度三度繰り返す内に慣れるんですよ。その内に殺す事さえ何とも思わなくなる。怖いですねぇ、人間というのは。これが人間の本当の堕落だと思った」
◆昭和18年10月、泰緬鉄道完成。
【死者】
連合国軍捕虜・約12000
アジア人労働者・約30000
日本軍・約1000
多大な犠牲で完成するも、戦況悪化で補給路の機能を失っていった。
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②
敗戦と同時に悲劇の現場はタイからシンガポールへと移る。
それまでシンガポールのチャンギー監獄には泰緬鉄道に送られる連合国軍の捕虜達が入れられていた。
しかし終戦を境に日本兵と連合国軍の捕虜は完全に立場が逆転する。
すぐに日本兵の検挙が始まった。
方法は首実検である。
元捕虜や住民に「コイツだ!」と指を差されると証拠がなくてもその場で直ちに逮捕された。
こうしてBC級戦犯とされた日本兵達が次々とチャンギー監獄に収容されていった。
タイの地方都市、カンチャナブリに広大な連合国軍の墓地がある。
ここに埋められた12000人は全て泰緬鉄道で犠牲になった捕虜達だ。
この泰緬鉄道のケースが最も重要な事件として取り上げられた。
戦犯調査で連合国軍はまず泰緬鉄道沿線に埋められた捕虜の遺体を掘り出し始めた。
そこで日本軍が当時捕虜に行った事を詳細に記した証拠が次々と発見された。
【証言】元陸軍通訳・永瀬隆さん
「50本入りのネイビーカットと言う有名な缶入りのタバコがあって、その缶が一つだけ出て来た。私は情報をやってたから、これは偉い事になったなぁって思った。そこには捕虜が死んだ時の理由や日本軍の部隊の名前、隊長の名前、係の名前、全部書いてあったから、ヤバいなと思いながら下を向いてた。案の定、連合軍の連中がジーッと見て寄って来てな、【これから我々は日本軍に正義を見せてやる、神の正義というのがどういうもんか見せてやる】って言われた」
連合国軍の神の正義…
それは裁判という形で始まった。
昭和21年1月からBC級戦犯裁判が始まり、129人がチャンギー刑務所で処刑される事となる。
日本軍を裁く為のこういった場所がアジアで49箇所も設置されたそうだ。
日本政府も知らぬまに始まったシンガポールの裁判の貴重な映像がイギリスに保管されている。
終戦直後にイギリス軍が撮影した極秘映像だ。
③
法廷に入る日本人戦犯達。
泰緬鉄道のケースでは捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ条約違反が問われる。
軍事物質を運ぶ鉄道建設に捕虜を使う事を命令した大本営の方針が違反だった。
しかし条約の存在すら知らなかった兵士達に全ての責任が押し付けられた。
通訳も弁護も連合国軍が行い、裁判は最長で3日間、上告は許されなかった。
内容も分からぬまま死刑判決を下される者も少なくかった。
物々しい裁判の中、連合国軍の追及に「自分は絶対にやっていません!」「絶対に潔白であります!」「そんな事は絶対にありません!」と答える日本の兵士達…
戦争が終わり、駒井さんが父の帰りを待っているその頃、駒井大尉は戦犯として逮捕され、7人を死傷させた罪により、チャンギーで死刑判決を受けていた。
駒井さんの父と同じ、捕虜虐待の容疑で、もう1人チャンギーに囚われていた韓国人がいた。
泰緬鉄道で捕虜監視員だった、李 鶴来(リ・カクライ)さんだ。
李さんは太平洋戦争が勃発した時、韓国で郵便局員として働いていた。
それが昭和17年、急遽タイに送られる。
【証言】(李鶴来さん)
「村長から呼び出しがあり、南方の捕虜収容所で募集がある。2年の契約で50円の給料をやるから、君、行ってきなさいと言われた。」
日本軍の命令で、李さん達、韓国の若者3000人が捕虜監視員としてタイに送られた。
約束は2年、戦争が終われば国に帰してもらえると思っていた。
しかし、日本軍の命令に従って病気の捕虜を工事現場に出した事が虐待とされ、チャンギーで死刑判決を下された。
「もう殴るわ蹴るわでね、ここは生き地獄みたいなもんで、泰緬鉄道にいただけで虐待の対象になった」
④
生き地獄とまで言われたチャンギー監獄に教誨師として送り込まれたのが僧侶だった田中日淳さんである。
「処刑の前に死刑囚に最後のお経をあげて欲しい…」
この依頼で初めて田中さんは戦犯として人知れず処刑されている日本人が南方にいる事を知った。
【チャンギー監獄Pホール】
死刑囚が隔離されて収容された懲罰房である。
中庭を囲むように二畳ほどの独房が並んでいた。
独房の中にはコンクリートの寝台とコンクリートの枕が置かれていた。
そして毛布が一枚だけ支給された。
この密室でイギリス兵による復讐が行われていた。
【証言】元鉄道隊小隊長・樽本重治さん
「死刑囚へのリンチが酷かった。死刑囚にされたらもう死人に口無しって感じにされて、一方的にやられ放題。毎晩イギリス兵が来て『stand up! get down! stand up! get down!』って号令と笑い声とヒーッという悲鳴が響いてた」
【証言】元教誨師・田中日淳さん
「かつて日本軍から捕虜にされた連合軍兵士から『我々が捕虜にされた時、ろくに食料を与えてもらえなかった。だからお前達は戦犯だ!』と責められて、要は報復を受ける訳ですね。そして今度は自分が戦犯となって、ろくすっぽ食べさせてもらえない立場になる。戦争っていうのはそういうものですよ」
死刑囚達が監守の目を盗んで密かに行っていた事がある。
それは遺書を書く事だった。
自分が囚われている事すら知らない家族に宛てて、トイレットペーパーに綴った。
しかし田中さんがPホールで見たのは、死刑囚の遺書が処刑の後に片っ端からボイラーで燃やされている現実だった。
田中「遺族に死刑囚の遺書を届けられるのは私しかいない。他に表に出られる者はいないのだから。死刑の人達の血の叫びを誰かに伝えてやりたい、遺族に伝えてやりたい、私はそう思った」
田中さんは遺書を持ち出す為に、ヒンズー語を覚える事にした。
日本に同情的だったインド兵の監守と親しくなり、身体検査をされないようにする為だった。
そうして田中さんは密かに遺書を持ち出し始めた。
もし遺書を持ち出そうとしている事がバレたら捕まる。
万が一持ち出しが発覚して遺書を取り上げられても、遺族に必ず最後の言葉が伝えられるようにと、田中さんは全ての遺書を毎晩別の便箋に書き写した。
そして自分の荷物の中に隠しておいた。
壮絶なリンチを受けながら遺書を書き続けた死刑囚達。
彼らにも処刑の前夜だけは最後の晩餐と呼ばれる夕食が用意された。
教誨師の田中さんも同席した。
酒以外のものは差し入れが許された。
白い米、たくあん、梅干し…一番喜ばれたのはタバコだった。
明日の処刑を前に皆、故郷や家族の事を語り合った。
田中「当時の空気から言うと、誰かが背負わなければならない。そういう雰囲気だったんです。日本が負けた、戦いに負けた。そして色んなケースで裁かれる。弁解をしたって弁解が出来るような裁判ではなかった。そういう中に自分が置かれている訳だから、結局は誰かが犠牲にならなければならない、これは仕方がない、運命だと言ってた人が多かった」
⑤
処刑の日の朝、絞首台の扉へと向かう一人一人に田中さんが最後のお経をあげた。
田中「私達も独房に入って、寝台を中心にしてお経をあげて、『元気でいってらっしゃい』と言って…。まぁ、元気でいってらっしゃいなんてもう理屈にならない言葉ですがね…他に言葉がないの…。そこで別れて出て来る…私達はそこまで」
教誨師すら立ち入れなかった、死刑囚がPホールを出てからの一部始終を記録したフィルムがある。
田中さんに見送られ、Pホールから処刑台に連行される死刑囚達。
死刑囚は両手首を後ろで縛られ、頭から布を被せられ見えない状態にされている。
その様子をイギリス軍は本国に送る為、三台のカメラで撮影していた。
処刑台に立たされる死刑囚…
首に縄がセットされる。
イギリス兵士は、笑い声混じりに会話をしながら首に縄を掛けていた。
処刑合図の鐘がなる。
カーンカーンカーンと不気味に響く鐘の音は、隣のPホールにまで響き渡った。
田中さんも、そして自分の番を待つ死刑囚も、ひざまづき、ただ祈りを捧げるしかなかった。
「父はなぜ処刑されたのか…」駒井さんは父の裁判記録を入手した関東学院大学・林教授に会う為、盛岡から横浜に行った。
裁判記録に父の事は一体どう書かれているのか…
駒井「何かちょっとした事でもあったら教えて下さい。別に恨むとか悲しむとかはありません。ただ真実だけを知っておきたいんです」
林「捕虜が無線機を隠してた事件がありましたね、それで将校達を連れてきて、お父様が尋問したけど白状しないので、朝鮮人の監視員に殴れと命令した…しかし軽くしか殴らなかったので、もっと厳しく殴れと命令したようですね」
駒井「親父が直接殴ったという事は…」
林「自分も殴ったと…記録にはそう書いてありますね」
上官の命令で駒井さんの父親は捕虜に手を下していた。
しかし上官は、裁判の中で父親の行為を残虐な行為と切り捨てていた。
たった一人、駒井さんの父親だけが容疑を認めていた。
「全責任は自分にある」とだけ述べていた。
弁護人すら弁護を諦めたとあった。
父親からの遺書がある…
【子供宛】
「人に後ろ指さされるような人になるなよ、立派な人となれ。3月14日は父の命日であるぞ。汝が父の供養をする時には、父は必ず汝らと共にあるであろう」
遺書にも何の弁解も書かれていなかった。
ただ、子供への思いだけが短く綴られていた。
⑥
田中さんがチャンギーから持ち帰った遺書の中に一枚の楽譜があった。
数字譜と呼ばれるハモニカの楽譜だ。
作詞は弘田栄治大尉(享年27)
昭和22年、チャンギー監獄で絞首刑となっている。
【無実の罪を甘受して 耐えにし君の魂は 夏草深き南の土地より帰れ 母の国】
弘田大尉の故郷は和歌山県湯浅町だった。
中学を卒業後、湯浅駅の駅員になる。
陸軍鉄道隊の多くは、国鉄から徴用された。
昭和15年、鉄道隊に入隊。
弘田大尉が小隊長として派遣されたのは、泰緬鉄道の中でも最難所の【ヒントク】の切り通しだった。
立ち塞がる巨大な硬い岩盤を僅か3ヶ月で切り開けという命令。
工事は雨季の6月から始まった。
伝染病が蔓延し、食料も底をつく中、弘田大尉も捕虜と一緒にノミを奮って作業に当たったという。
当時の現場の状況を、弘田大尉の部下であった元鉄道第九連隊の諸星達雄さんは鮮明に覚えていた。
【証言】諸星達雄さん
「大本営が、連隊は全滅しようとも完成させろと命令を出したんです。大隊長が『弘田、頼むよ』と言われて、弘田大尉は小隊の全員を集めて『お前たち、ここで一緒に俺と死んでくれ』と言う訳ですよ。こんな無謀な工事はどんな事をしても出来ないんだけど、命令だからどうしてもやらないといけないという事で、まぁやった訳です」
◆遺書より
シンガポールの法廷で絞首刑に処せられることになりました。
泰緬線のヒントクという所で大勢の捕虜が死亡したからです。
3ヶ月の間にマラリアやコレラで70名が死亡しました。
原始林に格闘を続け、雨季と悪疫に侵され、言語に絶する死闘でした。
今までで最もお国のために働いていると思ったのはこの頃でした。
泰緬鉄道にはもう一ヶ所、ヒントクに続く難所があった。
チョンカイの切り通しである。
チョンカイを担当したのが樽本重治さん。
弘田大尉と同じ「小隊長」だった。
― 工期はどんどん迫って早くやれ早くやれ言われて、しかし手元には十分な機材がない、その時の小隊長のお気持ちというのは…?
樽本「それは大変だったし死んでもいいと思いました。その頃は命令に忠実だったんですね…若いしね…。何くそという気持ちもありましたね」
― 同じ小隊長で運命を分けた事について、お気持ちの中ではどのように…?
樽本「私の方が運が良かったと思います。やった事は同じに違いないですから。彼が『明日裁判やねん』と来たのが最後で…『えぇ?裁判?どうしたん?』と聞いたら『いやぁ、何も知らん、部下が何かしたとも聞とらん』言うてね…死刑になるなんて夢にも思わなかった」
【蟻地獄】~遺書より
大小無数の黄色い蟻が忙しげに歩いている。
死の身の上を彼らは何も知らないで無心に往復している。
穴に落ちて盛んによじ登ろうと焦っている蟻ね足が如何に早く動いても、周囲の土を下に落とすだけである。
蟻は穴の中に消えていった。
⑦
軍人の行動規範を定めた戦陣訓があり、ここには【軍は天皇統帥の下】と書かれてある。
つまり軍が命令する頂点にいたのは天皇である。
しかしBC級戦犯裁判では命令を下した側の責任はほとんど問われていない。
その背景にはマッカーサー指令部のある判断があった。
天皇の戦争責任をどこまで問うか…議論の後に下された。
日本を統治するためには天皇が有効であり、天皇を戦犯とする証拠は見つかっていない。
◆防衛大学・田中宏巳教授
「BC級戦犯の上司を明らかにすると、だんだん上にいって最後に天皇にいく場合がある。天皇には絶対に被告席に座らせてはならないという大原則が背景にあった」
昭和22年1月、27歳の小隊長が現場の最高責任者として処刑された。
一枚の楽譜と遺書が残された。
処刑の翌年、弘田大尉の遺書は海を渡った。
彼の最後を見送った教誨師・田中日淳さんの手によって故郷の家族のもとに届けられた。
【遺書】
お父様、お兄様、栄治より
皆様に最後のお便り申し上げます
ここで極刑になるのであります
罪有りて罰せられるより、罪無くして罰せられる事を喜んで頂きたい
家名を傷付けて死んでいくものでもないことを信じて頂きたい
このチャンギーの絞首台に祖国の万歳を絶叫しつつ、散った人々は皆祖国の礎石となって、残る国民を信じて立派に安心して逝くのです
和歌山県湯浅駅…
27歳で処刑された若者は、時代が違えば平凡な一人の駅員として故郷で生涯を終えたことだろう。
シンガポールの街の中心に広大な日本人墓地があり、その片隅にチャンギー監獄で処刑された日本人戦犯達の墓がある。
2メートル四方のコンクリートの下に129人分の遺骨がまとめて葬られた。
碑が一本建てられているだけである。
戦争犯罪人として処刑された129人…
70年近く経った今も祖国の地に戻る事は出来ない。
⑧
BC級戦犯が処刑されたシンガポール。
日本軍がここに上陸して昭南島と名付けたのは昭和17年の事だった。
街の中心部には青空を貫く巨大な慰霊塔がある。
上陸直後に日本軍が行った華僑虐殺事件の慰霊塔だ。
数千から数万人が殺されたという。
シンガポールの人達に日本人戦犯についてどう思っているのか聞こうとしたが、取材は片っ端から拒否された。
誰一人語ろうとしないのだ。
しかし、交渉の末にやっと一人、取材に応じてくれた。
フン・チョーン・ホンさんである。
シンガポールには日本人戦犯には触れてはならないという不文律があるという。
「この何十年かで日本の会社や銀行、技術などがシンガポールに入ってきて、人々は日本をより理解し始めている。しかし心の奥底では全く違うのです。一つの例を話すと、1960年代に市民が何十万人も集まり、日本が行った戦争に抗議する出来事があった…日本軍に片腕を切り落とされた犠牲者たちが日本の戦争を非難するために押し寄せた。誰も語ろうとはしないけれど、ひとたび何かあれば感情は爆発する」
シンガポールでは日本人の戦犯について一切口にはしないが、チャンギー記念館には「Don't forget!(忘れるな!)」と書いてあり、街中心に巨大な慰霊塔がある。
中国や韓国のように「日本はこんな事をした!あんな事をした!」とは言わないけれども、皆、忘れてはいないし覚えている。
韓国人の李 鶴来さんは日本軍の命令で泰緬鉄道に捕虜監視員として徴用され、シンガポールで捕虜虐待の罪で死刑判決を受けた。
しかし死刑執行の直前になって奇跡的に減刑され、チャンギー監獄から一人生還した。
「(慰霊碑を見て)私もこの中に入る所だった。紙一重の差で生きるか死ぬかですよ、本当分からんです」
慰霊碑には李さんと同じ韓国の仲間たち10人の名前も刻まれていた。
韓国人の軍属が日本人戦犯として処刑されたのだ。
昭和20年9月の陸軍大臣の通達に【捕虜虐待は台湾・朝鮮人の野蛮な性質が原因だった】と念を押す文が記載されている。
所が戦後の補償となると、日本人戦犯には恩給を支給しながら、韓国人戦犯には韓国籍を理由に補償の対象外とした。
日本人として裁かれ、韓国人として切り捨てられた李さん…
日本政府は話し合いに応じようとせず、裁判に訴えるしかなかった。
10年間の廷争の末、下された判決は【現在の法律では賠償責任は認められないが、適切な立法措置を講じることが期待される】だった。
裁判所の判決を受けて李さんは、新たな立法措置を求め活動を続けている。
しかし国も国会議員も「酷い目に遭いましたね」と同情はするものの、誰一人日本の犠牲になった韓国人戦犯のために動こうとはしてくれない。
李さんは言う…
「日本人戦犯者は同じ戦犯であっても、自分の国のために死ぬという拠り所がありますでしょう。しかし私たちはそれすら求められない…何のために誰のために死んでいくのか…」
⑨
李さんは今でも教誨師だった田中日淳さんを見舞っている。
チャンギー監獄のPホールで同じ月日を過ごした二人。
死刑囚たちの悲しくも壮絶な最後を見送った死刑囚と教誨師である。
李「日本政府のやり方は本当に分からないですわ…良識も道義もない」
田中「うん…時代が変わったからな…まだアンタが元気でいるからいいけども、ずいぶんまぁ、色んな人が亡くなったな」
李「そうですね…皆死んじゃってますからね…無念の思いで死んだ仲間たちの思いを生き残った私たちが晴らしてあげたい…それが自分の責務・使命だと思ってます」
田中「…そうだ…」
駒井修さんの父が戦犯として処刑され60数年…
父は命令に従って捕虜を殺め、そして処刑されて逝った。
【お前の父親は戦争犯罪人】と後ろ指をさされ続けた戦後だった。
駒井さんはある決心をする。
父が重傷を負わせた捕虜が今もイギリスに生きていることを突き止めた。
イギリスで発売された元捕虜の自伝に父との事件が書かれていたのである。
悩んだ末に【会いたい】と手紙をしたためた。
「50歳頃からかな…結婚して子供が出来て、親の気持ちが分かるようになって…殺された人たちにも家族がいたんだろうなと考えるようになって…。うちの父が加害者で、あちらが被害者…余計だんだんと変わってきたというか…」
駒井さんは【父に変わって謝りたい】と手紙を書いた。
それから1ヶ月後、元捕虜から【貴方の訪問を待っている】と返事が来る。
イギリスに向かう駒井さん…
スコットランドに近い田舎街、バーウィック…
どんな気持ちで自分を待っているのか、駒井さんは直前まで足が震えていた。
到着すると、元捕虜のエリック・ロマックスさん(取材当時89歳)が玄関に出て出迎えてくれた。
駒井さんは深々と頭を下げる。
感無量だった。
ロマックスさんが「お早うございます、お元気ですか」と日本語で話し掛けて来る。
元捕虜の口から出て来たのは思わぬ日本語の挨拶だった。
ロマックスさんは戦後もずっと心の病に苦しんで来た。
戦争は終わり目に見えない苦しみはイギリスでも理解されなかった。
ただ日本人を恨み続けた戦後だったという。
父の罪を償いたいと決断した駒井さん。
憎しみに満ちた戦後を終わらせたいと決断したロマックスさん。
二人の会話は二時間に渡って続いた。
「私の供述で貴方の父が処刑されたのに訪ねてきてくれたことを感謝します」とロマックスさんは語った。
そして駒井さんが戦後、戦犯の子として虐げられた事を知り、アンフェアだと怒る。
日本とイギリス、戦後もずっと翻弄された二つの人生がそこにあった。
帰り際、駒井さんはロマックスさんから一枚のカードを渡された。
そこには【過去を振り向いても過去は変えられない。未来のために今をしっかり生きて行こう】と書かれていた。
⑩
日本、タイ、そしてシンガポール…
BC級戦犯が辿った足取りには戦争がもたらした深い悲しみが今もくっきりと刻まれている。
時を越えて届いた124通の遺書。
彼等の最後の言葉に恨みごとは無かった。
祖国の復興を願って逝った。
上官の命令は天皇の命令。
しかし処刑される時にはどんな思いで亡くなったのか…
遺書からは弁解や言い訳、恨みは一つもない。
自分たちが処刑される事で、父や母、兄弟、そして日本国民が残虐な取り扱いをされない…
そのために我々がここで命を捨てるという思いが強く滲み出ている。
死刑囚の最後を見送った元教誨師の田中日淳さん…
体調の良い時には家族に付き添われ境内の慰霊碑に訪れる。
慰霊碑の文字は【殉難者の碑】とした。
「戦犯という字は嫌いだ…犯罪者ではないのだから。だから私はどこまでも殉難者だと言います。日本の戦争という大きな難に殉じた人たちの慰霊碑です」と田中さんは語る。
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