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母のこと

回答10 + お礼2 HIT数 3152 あ+ あ-

通行人( ♀ )
14/10/22 12:32(更新日時)

長女ですが‥気の強い母と意地っ張りな私はソリが合わず、母の言葉を素直に聞き入れられない私はケンカばかりしてました。そんな母はバリバリのキャリアウーマンで朝早くから夜遅くまで働き、私が小学高学年の時に父と離婚し、私と妹と弟を女一人手で育て、家も建てました。
そんな母が、弟の高校卒業間近になり、今まで働いて来た会社を早期退社する事になりました。母曰く、これからは母として生きる、今まで私達に何もやって来てあげれなかったからという理由でした。
そんな頃でした、母が身体がダルイと寝込むようになったのは。
母は今まで病気知らずで風邪を引く事も殆どなかったので、更年期?程度に思っていたのですが‥病院での検査結果は違っていました。そこから入院生活が始まり一ヶ月に一回、家に帰るという生活が一年ぐらい続きました。始めのうちは母は帰る度に、旅行や買物に行ったりと元気そうに過ごしていたのですが、三ヶ月が経ち半年が経ち一年が過ぎと徐々に弱っていきました
でも、それでも私は母が亡くなるという事は、全く頭に浮かびませんでした。心の奥で、きっと大丈夫!何とかなる!母さんが死ぬわけないと根拠のない確信があったんです。抗ガン剤で髪の毛も抜け、薬の副作用でガリガリな身体になった母本人にも、この時にはあったと思います。私ギリギリで、いつも何とかなるんよ!と言うのが母の口癖でしたから‥でも、現実は違いました。死の日はこくこくと近づいていたんです、私達が気付かない間に。
母は肺に水が貯まり息が出来ず危篤状態になり兄弟三人で病院へ駆けつけました。呼吸器とチューブに繋がれた母を見た時、心に大きな岩が打ち付けられた様な衝動を受けました。胸の奥がキリキリして潰れそうでした。妹と弟は涙を必死に堪えていました。その後、兄弟三人で今後の方針を先生と相談をし交代で母に付き添いました。
母は時折、怖い夢を見ている様にうなされ。あっちに行け!あっち行け!まだ行かん!行かれない!と‥うわ言のように、かすれた声で言っていました。そして母は目覚めました。‥ちゃん‥ちゃん!とベッドから私を呼ぶ声。そして又、私は根拠のない確信をしました。もう大丈夫、これだけ母は苦しい思いをしたんだからコレ以上、悪い事は起こらないと‥でも。また違いました。死神は、すぐ側まで来ていたんです
最後の賭けに、二度目の移植をし後は退院の日を待つばかりだったのですが。急に先生に呼ばれ、母はあと余命一ヶ月だと聞かされました。
私達、兄弟は理解が出来ませんでした。
移植したのに?回復するハズなのに?何故⁉と。私達兄弟は、奇跡を信じて、この現実を母に告げる事をしませんでした。
その後、母には退院という形で最後の時を過ごす為、家族四人で自宅で過ごしました。その時、母は手足が不自由な状態になっていました。脳にガンが転移し麻痺を起こしているという事でした。母の身体は、ますます痩せ抱えると私の身体にスッポリ隠れてしまう程、小さくなっていました。それでも信じていました。奇跡が起こると心の底から。だから真面目な話は一切しませんでした、ジョーダンばかりを言い、精一杯お茶らけて見せました。
私には、まだアナタが必要なんだよ、まだ子供なんだよと気持ちを込めて。
そして弟は成人式の日を迎え、弟を見る母の目は何故か誇らし気でした。

14/10/21 12:59 追記
その夜、母と布団を並べましたが母は寝付けず朝まで色々話しました。離婚した父の事‥そして母は女は女。意地を張らず生きろ一人で生きるのは難しかったと‥。そして母は最後の時を迎えました。目をしっかりと開き必死に呼吸をしていました。その呼吸も途切れていき母さん!と声を掛けると又、深く呼吸をします。私は声を掛け続けました。妹は、もうやめて楽にしてあげようと泣きました。

14/10/21 13:38 追記
母は目を開いたまま涙を一粒流し目の奥の光が消え息を引取りました。享年52歳でした。どうして一人苦労してきた母が‥母で無ければならなかったのか五年たった今も答えは出ません。でも、時は待っていてくれません。私達も進んでいくしかありません。

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No.2150165 14/10/21 12:44(悩み投稿日時)

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No.1 14/10/21 12:49
通行人1 

続きがあるのかな?
考えたくないよね、自分の身近にいる人の死は。きっと大丈夫って自分にも言い聞かせて、じゃないとこっちも笑顔でいられんもん。

No.2 14/10/21 13:07
通行人2 

死は、誰にでも平等に訪れます。お母さんが死の間際に主さんお子さん達の傍で安らかに慣れた事がとても大切な事だと思いますよ。

No.3 14/10/21 13:07
通行人3 

親はいつまでも元気でいる訳じゃないんだからと、俺もよく言われたよ。
そう言ってた親父は二年前に他界し、今は母親も癌になった。 何が出来るのか、どうすればいいのか、解らずオロオロするばかりだったけど、でも、そんな時は必ず来てしまうんだと思えば、なら今出来る事はしなくちゃいけないなと思うよ。
お母さんはまだ健在なの?
もしそうなら、今のうちに出来る事、してあげたい事はなるべくやっておきな。
後悔するのは誰でも出来るけど、大切なのはその後悔の元となるものを、事前に摘み取る事だと思うし。
あとは、主のお母さんが笑顔で良かったと思いながら最期を迎えられたなら、それが一番いいんだと思う。
主はそんな事考えたくもないだろうけど、覚悟はしておかないとならないだろうね。
生きてるお母さん見ながらそんな覚悟決めるのは辛い事だけど、でも、何処かでそれはしないとならないと思うよ。
ただ、人間は死んだってそれで終わりじゃないと思うんだ。
もう未来永劫会えなくなるんじゃないんだから、この世での別れはあっても、サヨナラは必要ないし、「またね」と主が最後に言えたなら、また必ず会えるよ。
何か嫌な事ばかり書いてしまったけど、今ある時間を大切にして、主もお母さんも兄弟も後悔しないような意味のある時間を送って下さい。
でも、まだまだ分からないぞ。 末期で余命宣告受けた人間が回復したなんて事例もあるんだし。 あとは諦めない事、信じる事が大切なんだろうね。
あと、治療って意味では、ビタミンC治療やNK細胞治療なんてのもあるよ。
体力的に弱ってるなら、そこに可能性を掛けてもいいかもよ。
俺の嫁のお父さんがやっぱり末期で、余命一年の宣告を受けたんだけど、上気二つの治療に切り替えてからは調子が上向いたよ。
今は余命宣告から5年過ぎたけど、今も元気で居るよ。
ただ、この二つの治療は保険適用は出来ないから、そこは問題になるかもね。
詳しくはググれば色々出ると思うんで、参考になると思うよ。
尚、余命宣告とは、そこまでしか命が持たないと言う訳じゃないから、そこは鵜呑みにしない方がいいんだと。
これも詳しくはググれば出てくるよ。
取り敢えずは頑張ってね!

No.4 14/10/21 13:35
通行人4 

失礼ながら疑問があります。

緊急で人口呼吸器を装着した場合、会話は不可能です。何の癌かはわかりませんが、体力が低下している時の肺水腫では簡単に抜管はできないはず。

二度の移植とありますが、どのタイミングでされたのでしょう。種類にもよりますが、これも体力低下が激しい場合に出来るのかどうか。

脳に癌が転移し四肢に不自由が生じていると。癌の苦しみに対してペインコントロールはされていないのでしょうか。また、会話は正確に出来ているのでしょうか。

気になったので書き連ねました。真剣にレスしてくださっている方々のためにも、お答え頂けたらと思います。

  • << 6 私も真剣に投稿してますよ 言葉が足りないので申し訳ないです 何とでも思ってもらっても構いませんが、アナタみたいな言い方をする人って本当に何処にでも居らっしゃるんですね 母の葬式で、知人に説明を求められ上手く説明できない私に対して責めるような口調で言う人がいましたよ アナタと同じように。 その人の事は、人の心情は関係なく、自分の知識や正しさを開けかす傲慢な方と受け止っていますけどね アナタは真剣にコメントしてくれてる方達の為に言って下さる心の優しい親切な方なんですね 素晴らしい方です

No.5 14/10/21 13:53
お礼

>> 4 そうですね。危篤状態になった時は呼吸器が必要だったのですが三日後に呼吸が安定した為、酸素マスクに変更されました。その後に意識が戻り体力が持つか分からないと先生は言ってましたが二回目の移植を行いました、本人の意思で。
一回目の移植は自下移植といって本人の骨髄を取りキレイにした後、身体に戻すというものでした。二回目は骨髄バンクで他人の骨髄を貰いました。
モルヒネ等の緩和治療は訳が分からない状態になりたくないという本人の意思で使用していません。
延命治療も無駄なお金を使いたくないという本人の意思で受けていません。そう母が先生と話きめていたそうです

No.6 14/10/21 14:02
お礼

>> 4 失礼ながら疑問があります。 緊急で人口呼吸器を装着した場合、会話は不可能です。何の癌かはわかりませんが、体力が低下している時の肺水腫で… 私も真剣に投稿してますよ
言葉が足りないので申し訳ないです
何とでも思ってもらっても構いませんが、アナタみたいな言い方をする人って本当に何処にでも居らっしゃるんですね
母の葬式で、知人に説明を求められ上手く説明できない私に対して責めるような口調で言う人がいましたよ
アナタと同じように。
その人の事は、人の心情は関係なく、自分の知識や正しさを開けかす傲慢な方と受け止っていますけどね
アナタは真剣にコメントしてくれてる方達の為に言って下さる心の優しい親切な方なんですね
素晴らしい方です

No.7 14/10/21 14:26
通行人4 

お礼が遅くなりすみません。
ご丁寧に回答くださりありがとうございました。

確かに麻薬は`自分らしさ´を失わせてしまうのかもしれません。でも、お母様がしっかりと選択されていた。

お母様の生きざまなのですね。

5年経ったとのこと。

私も彼を脳腫瘍で失いました。もう随分前のことですが。まだ思い出す時があります。それがお母様であれば尚のこと。


いつか、しっかりと受け止められる日が訪れることを願っています。


また、気になったことを書き連ねたことが、主さんの心を傷つけてしまったことをお詫びいたします。

No.8 14/10/21 15:13
お兄さん8 

通行人4よ、邪魔
知識をひけらかして楽しいか?負けず嫌いか?揚げ足とりか?
みっともねえな 思い切りケーワイだなあんた

No.9 14/10/21 15:22
通行人9 

私も両親を亡くしました。

父は私が15歳の時に交通事故で、即死で、救急車の中でもう既に息を引き取っていました。

朝、いってらっしゃいと送り出した時は元気だったのに。

まさかもう二度と父と会話出来なくなるなんて思いもしませんでした。

みんなのお父さんは元気なのに、何でうちのお父さんなの!?何も悪いことしてないじゃん!って、家族で泣きました。

享年43歳でした。


母が他界したのは私が23歳の時。

クモ膜下出血で、仕事中に突然倒れ、意識が戻る事はなく、そのまま息を引き取りました。

享年48歳でした。

私は23歳で親と呼べる人が誰もいなくなってしまいました。

4つ上の兄と二人で励まし合い、なんとか生きていました。

その後、私が先に結婚し、子供にも恵まれ、兄も結婚し、子供も生まれて、両親に孫の顔を見せられなかった事は悲しいですが、両親が産み育ててくれた命を大切に、精一杯生きていこうと頑張ってきました。

そして去年、兄38歳、胃に腫瘍が見つかりました。

初期ではなく、進行しており、胃を全摘出しました。

兄は「俺は絶対に死なない、死ねない、子供達が自立するまで絶対に生きる、孫の顔も見たい」と言っていました。

兄は生きてくれると私も信じています。

甥っ子達に私達と同じ思いはさせたくないです。

5年間再発しないことを毎日願ってます。

そして私も健康には気を付けて、健康診断もちゃんと受けています。

子供達に同じ思いをさせたくない。

両親が見守ってくれているはずです。

主さん、辛いよね。

私も辛い。

何で父が?何で母が?

何回も何回もそう思った。

でもお母様が産み育ててくれたから、今主さんが生きている。

お母様のためにも今を一生懸命生きよう。

それが一番の親孝行になるはずです(^^)



No.10 14/10/21 23:52
通行人10 

すみません
そんな状況なのにネットができ、しかも冷静に詳細を記載できる主さんはある意味凄いですね

私も大事な人を亡くした事がありましたが、暫くはショックで何もできませんでした

ネットなんかとんでもなかったですし、今でさえも不特定多数の人が閲覧できる場所で詳しく話なんかしたくありません

No.11 14/10/22 10:09
通行人11 



主さんは、もう5年経つと言ってますよ。

No.12 14/10/22 12:32
通行人12 

通行人10
良く読みな。こういう内容のスレでも粗探しや揚げ足とりって本当みっともない。

同じ悲しみを経験してるなら尚更、もう少し人の気持ち思い遣りなよ。

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