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平安時代のうんちくを語ってください!

回答8 + お礼0 HIT数 343 あ+ あ-

匿名さん
21/10/21 22:19(更新日時)

平安時代のうんちくを語ってください!

No.3397922 21/10/18 18:26(悩み投稿日時)

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No.1 21/10/18 19:07
匿名さん1 

源氏半端ないって!

ていうのが流行語大賞に選ばれた。

No.2 21/10/18 19:41
匿名さん2 ( ♀ )

清少納言と紫式部は同じ官で仕事をしていた
今ならバリキャリだね。
(マジレス)

No.3 21/10/18 23:41
恥ずかしがり屋さん3 

うたた寝に 恋しき人を 見てしおり 夢てふものは 頼みそめてき


平安時代は江戸時代より長かった

引目鉤鼻=ひきめかぎはな

夕方になると、男が女の家に遊びに行き、一夜を共にして朝帰り


この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることの なしと思へば=藤原道長が摂政になった時の短歌

710年、都は平城京に。なんと(710)きれいな平城京
     今は「納豆ネバネバ平城京」と覚えるとか。

794年 都は平安京に。鳴くよ(794)ウグイス平安京

894年 遣唐使廃止 白紙(894)に戻す遣唐使

935年 平将門の乱
939年 藤原純友の乱

紫式部日記によると、昔はトイレットペーパーがなかったから、「手」で拭いた、の記述がある。小も大も。

1156年 保元の乱
1159年 平治の乱

鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀=鹿ヶ谷事件
平家打倒の計画を、鹿ヶ谷というところで密会していたら、多田行綱(ただ・ゆきつな)という武将が裏切って平清盛にチクったので、この計画が発覚し、参画したものは処刑されたり、俊寛(しゅんかん)という僧は佐渡ヶ島へ流罪。

1167年、平清盛、太政大臣に。

源義経の活躍
一の谷、屋島、壇ノ浦の戦い
壇ノ浦で、源平の戦いを船上から見ていた清盛の妻、二位尼(にいのあま)…平時子は、もう平家は敗退と察し、子の安徳天皇を抱いて「さっ、帝(みかど)、海の底にも都はございます、参りましょう」と海へ投降、入水、海中に沈んだ。
安徳天皇は二歳で即位し、八歳で崩御。歴代天皇で最も短命。


長くなったので続きは今度。

No.4 21/10/18 23:52
匿名さん4 

紫式部と清少納言はお互いすごくライバル視してたらしいけど実際一度も会ったことがない。
あと藤原道長は結構ぽっちゃりさん。

No.5 21/10/19 00:59
匿名さん5 

清少納言は癖毛だったらしい。

No.6 21/10/19 05:01
匿名さん6 

平安時代から江戸時代初期はね。
今の男性と女性の立場が逆だったんだよ。
女性の苗字を名乗り、女性が軍を指揮するのが普通だった。
なので、その頃に侍達は女性疑惑がかけられてる。
仕事も女性が仕事をするキャリアウーマンが主流で、男性はそんな女性にモテる為に今で言うイクメンになった。
(逆輸入で海外がイクメンになり、日本は逆輸入で亭主関白になった。)

更に!!
男性は男の娘(美人系ショタ)と愛人関係に…
(有名なのが森蘭丸)
女性はスカトロ系のショタと愛人関係になるのが普通だった。

因みに、何処から寄越されるのかと言うと寺だよ。
寺は女人禁制にした事でホモだらけになったから…
(反対に西洋はシスターを男子禁制にした事で百合塗れになった。)

幕府は性病防止の為に風俗を作り、風俗は今でも暗黙の了解で今も存在し続けてる。
日本の伝統なんだよ。

因みにこう言う話を保存したのは歴史オタの天皇さんが保存した事で今も残ってる。

他にも大食い大会は江戸時代の頃にはあったよ。

No.7 21/10/21 21:24
恥ずかしがり屋さん3 

 源平の戦いで活躍した義経をねたんだ梶原景時が、義経の兄、頼朝に「義経はエエカッコして、頼朝の地位をねらってる」と大ウソを告げ口し、義経は景時の陰謀を悲しく思いながらも、手紙で頼朝に誤解を解くため、
「私は名誉や手柄を立てるため源平の戦いをしたのではない。全くの誤解です。私は兄を尊敬し、慕っております。決してウソ偽りは申していません」と伝えるが、景時はさらに頼朝に加勢する。
そして、頼朝は義経を討つことにし、義経は指名手配されてしまう。日本中を逃亡中、石川県小松市の安宅の関の有名な勧進帳物語。
一行が関所を通ろうとした時、番人が、最後尾で変装してた義経を怪しいと言い、一行のリーダーに扮していた弁慶が、義経に、「お前が義経に似てるから、オレたちは迷惑だ!」と義経にリンチをする芝居を番人の前で演技してみせ、「彼は義経じゃないよアピール」をする。番人が「そこまでしなくても」と諭してリンチをやめさせる。
この時、番人の一部は、最後尾の人物が本物の義経であることを察知したが、彼を守ろうとする弁慶や一行の信義の篤さに感心して、番人に義経を追わせなかったという。
弁慶はあとで、義経に謝罪した。

義経と静御前のロマンス
義経はメンバーの静御前に、「私と居るとあなたも逮捕されてしまう。寂しいが一旦離れよう。そしてまた逢おう」と、吉野で別れる。
そして頼朝にとらえられ、鶴岡八幡宮で舞を舞えと頼朝に言われ、舞踊を舞った。この時、
「しずやしず しずのおだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな」と歌った。義経慕い歌った歌ということで頼朝の怒りを買うが、妻の北条政子にたしなめられる。
そして義経は何処に居るのかと尋問されたが、吉野で別れたきり、知らないと答えた。そして解放されたが、二度と義経に逢うことができず、亡くなった。

岩手県奥州平泉の藤原秀衡のもとに義経たちは身を寄せていたが、秀衡はやがて病死してしまった。子どもの泰衡に義経を託したが、泰衡は裏切り、ここに義経が居ると頼朝にチクったので、義経たちは攻め込まれてしまった。そして、義経は武士らしく切腹して亡くなった。
弁慶は義経を守るため、外で戦っていたが、多くの矢を敵に射られて、仁王立ちになったまま死んだと伝えられている。

1192年、鎌倉幕府がひらかれ(いい国作ろう鎌倉幕府)、激動の平安時代は終わりを告げた。

No.8 21/10/21 22:19
匿名さん8 

ゆくかわのながれはたえずして
しかももとのみずにあらず
よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすびて
ひさしくとどまりたるためしなし
よのなかもこれとおなじ

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