【無知の涙】

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通行人
15/06/03 06:30(更新日時)

【流浪する金の卵】

昭和44年4月7日、渋谷区の専門学校に不法侵入した男が逮捕された。
取り調べによって、男が前年10月から11月にかけて4人の男性を次々とピストルで射殺した広域重要指定「108号事件」の犯人(以降N)である事が分かった。

Nは当時19歳の少年だった。
昭和24年、8人兄弟の7番目の子として、北海道網走市の貧しい家庭に生まれた。

父親はリンゴの剪定職人だったが、博打に明け暮れ、家庭は破壊状態にあり、生活に窮した母親は子供を連れて実家に帰ろうとするも、汽車賃が工面出来ず、Nを含む4人の子供を残して去ってしまう。

残されたNを含む4人兄弟は、屑拾いなどをしながら極貧生活に耐え、何とか生計を立てていたものの、飢えと親を失った愛情希薄から心身共に荒み、その矛先は弱い者に向けられ、Nは兄から暴力を受け続けていた。

4人を見かねた近隣住民による福祉事務所への通報をきっかけに、残された4人は母親の元に引き取られたのだが、Nの心は既に崩壊していたのか、その後も家出を繰り返したりしていた。

後年、獄中で記した初めての著作『無知の涙』の中で、Nは「もし私が普通の家庭に育ったのであるならば、このような事件を起こさなかったであろうし、起きなかったであろう。しかし実際の話、貧乏人であり、この事件があるのである」と述べている。

幼少時代の悲惨な体験は、澱のようにNの心の奥底に沈んでいったのである。

中学校卒業までを母の実家で過ごした後、昭和40年、Nは集団就職の特別列車で上京した。

当時、日本は高度経済成長のまっただ中にあり、中卒者は「金の卵」としてもてはやされていたのだ。

東京に出て来たNは、フルーツパーラーに就職するが、無口で友達付き合いも悪く、寮内ではいつも一人読書にふけっていたという。

同僚にも上司にも馴染めずに半年で退職。その後、3年の間に牛乳販売店や自動車整備工、米穀店、クリーニング店など、いくつもの職を転々とした。

その間、軽い窃盗や海外への密航未遂などにより何度か逮捕されている。

【自暴自棄の凶行】

Nがピストルを手に入れたのは、昭和43年の10月。最初の事件発生の直前の事だった。

横須賀市内の米軍キャンプに侵入し、ピストルと弾丸、刺繍入りのハンカチ、ジャックナイフを盗んだ。そしてこのピストルにより凶行は引き起こされる。

第一の事件は、昭和43年10月11日未明、東京・芝の東京プルンスホテルで起きた。
警備員の一人が巡回から帰ってこない為、心配した同僚が様子を見に行ったところ、頭から血を流して倒れているのを発見、すぐに病院に搬送したが、数時間後に死亡した。

警視庁愛宕署の捜査本部は、凶器は22口径の回転式ピストルで、犯人は1メートルほどの至近距離から発射したものと見て、捜査を開始した。

3日後の10月14日未明、京都・東山区の八坂神社境内で第二の事件は起きる。

同神社の警備員が巡回中、何者かにピストルで撃たれた。警備員は発砲音を聞きつけて駆け付けた警官に「犯人は17〜18歳の男だ」と言ったまま意識を失い、数時間後に死亡した。


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No.2220603 15/05/29 23:36(悩み投稿日時)

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No.1 15/05/29 23:37
お礼

警察庁は、犯行に使われた弾丸と殺害の手口から東京プルンスホテルの事件と同一犯と断定し、一連の事件を広域重要指定事件「108号」に指定、第三の犯行を防ぐべく大規模な捜査を開始した。

Nの供述によると、東京と京都の二つの事件は、いずれも敷地内をうろついているところを警備員に見とがめられた為に、とっさにピストルの引き金を引いた突発的な犯行だったという。

確かにどちらの事件も殺害方法こそ残忍な手口であったが、金品や所持品を奪った形跡はない。
しかし、京都の事件以後、Nの犯行の手口は大きく変わって行く。
Nは『無知の涙』の中で次のように述べている。
「あの時期、後の2件は回避せるものであった。しかし、どうせ死刑になるという観念であれらの事件を犯してしまった」
 後の二つの犯行は、いずれもタクシー運転手を狙った強盗殺人であった。
突発的に起こしてしまった最初の二つの殺人事件により自暴自棄となったNは、第三、第四の凶行へと突き進んでいくことになる。

【「連続射殺魔」逮捕】

京都事件から1週間後の10月21日、Nは北海道に渡った。
小樽、札幌を経て、函館に入ったのは26日。
そして、その日の未明、函館市内でタクシーに乗り込み、郊外の人気のない狭い道に誘い込んで運転手を射殺、現金約8000円を奪って逃走した。

この事件は当初、警察が運転手の死因を「鈍器のようなもので殴り殺された」と誤って判断した為に、初動捜査は大きく遅れた。
ピストルによる犯行であることが判明し、108号事件と同一犯であると断定されたのは、事件発生から18日後の11月13日のことであったという。

こうして警察が「第三の事件」の真相をつかみきれずにいる間、遠く離れた名古屋で「第四の事件」は起きていた。11月5日の未明、Nは名古屋市港区の路上でふたたびタクシー運転手を射殺し、現金約7000円と腕時計を奪って逃走したのだ。

四件の射殺事件が同一犯人と判明したことから、警視庁は11月14日から15日朝にかけて、都内全域のホテルや旅館などへ大規模な「一斉大立ち入り検査」を実施。

No.2 15/05/29 23:38
お礼

さらに、翌16日には警察庁が全国の警察へ一斉捜査を指示し、約7万人の警官を動員、全国136万6千ヶ所で聞き込み調査を行った。

しかしこうした空前規模の捜査をもってしても犯人の足取りは杳としてつかめず、国民は連続射殺魔の影に怯えた。特にタクシー運転手の間では、夜間の男の1人客を乗車拒否するケースが相次いだ。

Nの「第五の犯行」の舞台となったのは東京・原宿だった。しかしこの事件は未遂に終わり、「連続射殺事件」は一気に解決に向かうことになる。



昭和44年4月7日の午前1時過ぎ、千駄ヶ谷の専門学校に何者かが侵入した。
駆け付けた警備員が荒らされた室内にうずくまるNを発見。Nはとっさに警備員に向けてピストルを発砲したが当たらず、そのまま逃走した。

しかし、通報を受けて付近を巡回していた代々木署の警官が北参道を歩いているNを見つけた。
警官が「原宿でやったろう」と聞くと、こっくりと頷き、抵抗することなく自分から両手を上げたという。

同日の夕刊各紙はいずれも一面トップで、「連続射殺魔」の逮捕を掲載。多くの報道機関が「事件の社会的意味の大きさ」や「類似事件の防止」などを理由に、未成年なNの名前を実名で報道した。


【貧乏が憎い!】

「どうせ死刑さ」これが逮捕後、東京拘置所に移されたNの口癖だったという。

Nが問われた罪状は、窃盗罪、殺人罪、強盗殺人罪など6つ。
昭和44年8月8日、東京地裁において第一回公判が始まったが、当初、Nはほとんど喋らず、たまに口を開いても奇矯な言動が多かった。

第十回公判では、「函館の事件が一番ひどかったと、自分でも思っている。それで一言、言葉を捧げたい」として、石川五右衛門の辞世「石川や浜の真砂は尽きるとも…」をもじった「月の真砂は尽きるとも、資本主義のあるかぎり、世に悲惨な事件は尽きまじ」という一首を披露した。

また第十二回公判では、「俺のような男が、こうしてここにいるのは、何もかも貧乏だったからだ。俺はそのことが憎い。憎いからやったんだ」と叫んだ後、突如、ウィリアム・ボンガー著『犯罪と経済状態』の一節を英語で暗唱し、法廷内を騒然とさせた。

No.3 15/05/29 23:38
お礼

Nは弁護人に対しても心を開かず、公判中に弁護人に毒づいたり、自分の思想を理解してくれないとの理由で一方的に解任したりした為、東京地裁における第一審は長引き、公判回数は66回に及んだ。

昭和54年7月10日、東京地裁は「素質、生育歴に同情すべき事情がある」としながらも、「4人の善良な市民の命を残虐な方法で奪い、社会にも大きな不安を与えた」などとして、Nに「死刑」を言い渡した。

弁護団はこの判決を不服として東京高裁に控訴する。

【『無知の涙』を出版】

こうして、いつ果てるとも知れない裁判の中で、獄中における読書と執筆活動だけが、Nの心の支えになっていたのかもしれない。
独房ではチェーホフやドストエフスキーなどのロシア文学をはじめ、カントやフロイト、マルクスの『資本論』全八巻を読みあさった。
ボンガーの著書の一節を暗唱できたのも、こうした読書体験があったからである。

また、Nは獄中でひたすら自らの思いをノートに綴っていた。

昭和46年3月には、十冊に達したノートをまとめて『無知の涙』として出版。
極貧の生い立ちと、虐げられた若者の孤独感に溢れたメッセージは世間に衝撃を与え、ベストセラーにとった。

後にNの妻となる女性も『無知の涙』に感銘を受け、数度の文通の末、昭和55年にNと獄中結婚を遂げることになる(後に協議離婚)

その後も、Nは『人民を忘れたカナリアたち』『ソオ連の旅芸人』『捨て子ごっこ』『なぜか、海』などの手記や小説を次々と発表。
印税の一部は被害者の遺族や故郷の母親などに送られた。

また、昭和59年に出版された『木橋』は第19回新日本文学賞を受賞。
『異水』を上梓した平成2年には、日本文藝家協会に入会を申請したが、入会委員会が決定を保留した為、N自らが入会申込を撤回する一幕もあった。

【死刑制度存廃に波紋】

昭和56年8月21日、東京高裁は第二審において、第一審の判決を破棄し、Nに「無期懲役」を言い渡した。
この判決はNの裁判に限らず、死刑適用基準のあり方を広く問い直す重要な判決となった。

No.4 15/05/29 23:39
お礼

このとき東京高裁は「死刑の適用は、どの裁判所でも死刑を宣告するほどの情状がある場合に限るべき」として、死刑を極めて例外的な刑と見た。

こうした立場から「4人殺害」を犯したNを無期懲役にすれば、他の凶悪事件に対する判決へも影響を及ぼすのは必至である。
死刑制度の廃止にも繋がりかねない重要な判決だったのである。

東京高検はこの判決を「判例違反」として最高裁に上告した。
本事件が犯罪史上希有の重大犯罪であり、被告に責任能力があるにもかかわらず、これを無期懲役とするのは「死刑の存続適用を否定する」というのがその理由だった。


昭和58年7月8日、最高裁は無期懲役を破棄し、東京高裁へ差し戻した。

Nに対する無期懲役の判決以来、最高裁ではNの「判決待ち」により死刑判決がゼロになっていた。

しかし、この差戻しを機に最高裁における死刑判決は昭和59年からふたたび出るようになり、このことがさらに死刑存廃論争に大きな波紋を投げかけた。

昭和62年3月18日、東京高裁は差戻し控訴審において、「生い立ちや年齢を考慮しても死刑が重すぎるとはいえない」として第一審の死刑判決を支持し、被告側の控訴を棄却した。

このときNは「戦争になりますよ」「爆弾闘争で死刑廃止を」などと声高に繰り返したという。

N側は再び上告するが、平成2年4月17日、最高裁は上告を棄却。

ここにNの死刑が確定し、20年に渡る裁判は終止符を打つのである。

同時に、凶悪犯罪には死刑をもって臨むという、死刑制度の存続も追認されることになった。

死刑確定から7年後の平成9年8月1日、東京拘置所でNの死刑が執行された(享年48歳)

執行直前に刑務官から「何か言い残すことはないか」と聞かれたNは「印税を日本と世界、とくにぺルーの貧しい子供に送って下さい」と遺言したという。

後にNを担当した弁護士ら数人によって「N子供募金」が設立され、印税はペルーの福祉施設に継続して送られることとなった。

遺骨の一部は本人の遺志により、網走沖のオホーツク海に散骨された。

No.5 15/06/02 22:44
通行人5 

分からなくはない。
でも、それに近い人が犯罪者になるかというと、それは別問題。
やはり、どこかで人生から逃げ目を背けることしかできない弱さが要因だと思う。

No.6 15/06/03 00:40
通行人6 ( 20代 ♂ )

何言ってんだか。
サイコパスの戯言にしか聞こえない。
人を殺すのは平気で自分が国家に殺されるのは嫌か。
人殺しの印税を賠償金として遺族はお金を受け取ったのかわからないけど、遺族はどういう心境だったろうね。
機能不全家族のアダルトチルドレン?生い立ちはどうれあれモンスターになってしまったサイコ野郎の死刑は妥当。

No.7 15/06/03 06:30
通行人7 

確かに生い立ちや、幼い頃に受けた精神的なダメージには同情の余地もあるけど、では全く容疑者とは無関係なのにある日突然に命を奪われた被害者の無念は?被害者遺族の悔しさはどう解決するの?

国がこの事件では審議に審議を繰り返し、この容疑者をこの国の法律に則って容疑者を始末する!と言うのならそれがこの事件の全て。容疑者は何人も人殺しをするの自分が死刑になる段となったら、控訴し悪あがき。

格好悪いね…結局この容疑者は生い立ちが悪い。自分は悪くない。死刑は受け入れたくない…随分なご都合主義だね。では返す返すも被害者の無念は?遺族の悔しさは?死刑と言う形で国家が容疑者を始末するのが、やはりこの事件での最良の選択では?

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