高校なんか中退しても良かったのかもと今更ながら思います。 ADHDと自閉症…

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2023/06/29 21:01(更新日時)

高校なんか中退しても良かったのかもと今更ながら思います。

ADHDと自閉症スペクトラムという2種類の発達障害を持つ、今39才の未婚女性です。

自閉症スペクトラムが先に判明したものの、ADHDの方が重度で2種類の専門の薬を投薬されながら、長いこと(もう6年間同じところに)障害者として就労B型の利用者としてお世話になっています。比較的最近、障害年金も国からもらえるようになれ、遡求請求分も通り、200万ちょっとほど国からもらえました。

私は一人っ子で、小1の時に母が病気で亡くなり、それ以来父は再婚せず父一人子一人の父子家庭で育ったのですが、おかげで父の遺産を家含めすんなり全て独り占めできたのも大変ありがたかったし私にとって本当に良かったと思っております。

正直、兄弟姉妹が私に居なくて本当に良かった。兄弟姉妹が居たら迷惑をかけてしまった可能性が高いし、父の遺産を分け合わないといけないからです。

しかし一方で、母が私が小1まで書き残した育児日記を見つけたら、母は黒柳徹子の「窓際のトットちゃん」を読んでおり、世が発達障害の概念を持つ前からそれを知っており、私にその傾向が同じようにあることを見抜いてくれていたのです。

母は母の友達に、「この子はなにかと個性が強くて、まるで窓際のトットちゃんみたいなの。」と言っていたらしく、私は幼い時に母の友達に「トットちゃん」というあだ名で呼ばれていたらしいのです(自分にはその記憶はないのですが)。

そして、「この子は個性が強すぎて、どうも全日制の普通の中高に通うのは適さないかも知れない気がする。」と書いてもいました。

ドキッとしました。その通りだったから。

一応、進学校の女子高に進みましたが、3年間ほぼずっと3軍通り越して4軍でした。居心地が悪いので精神衛生上中退したいと思ったことが数えきれないほどありました。ほぼ毎日そう思いながら過ごしたと言っても過言ではありません。家庭内ではあの当時、いつも父に荒れてしまっていました。反抗期と言うより、学校での辛さや不満をつい父にぶつけてしまっていました。

ほぼ全てにおいて出来が悪く常識能力など社会適応力に難があり、投薬してないと時々ヘラヘラ笑いするしイケてるタイプでもないくせに、父が教育熱心だったし一応知的障害及び学習障害(脳の特性ゆえ学力に難が出るタイプの発達障害)ではなかったので一応進学校に受かることだけは出来てしまったのです。

もし母が生き残っていたらor既に発達障害の概念のある世の中で育っていたら、発達障害に適したコースに進む学生時代を送れたのではないかと思ってしまうのです。

小学校で発達障害グレー→中学で確定、投薬してもらいながら障害児学級→高校はフリースクールや通信制高校→一応、学力を世に示すためにスクールカーストのない大学には行きたいならフリースクールなら高卒認定(昔の大検、フリースクールは卒業しても高卒とは認められないため)を取って大学受験して通う

とか。

いつか就労B型から就労A型に上がろうと思ってはいますが、やはり学歴は無関係でしょうし、別に中退しても良かったかなあ、と。

ちなみに幸か不幸か、本格的なスクールカーストが発生しだす中学ではたまたま相性が良い世話好きな友達が世話役のようになっていて孤立はしませんでした。

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No.1

主さん、いま39歳でしょ?

いまさら高校時代を後悔しても、どうしようもないんじゃないかな?

No.2

そうなんですよね。今更ですよね。

私の父は教育熱心だったし、中退して欲しくなさそうだったんですけどね。

理論上、中退して高卒認定受けて(あるいは通信制高校を出て)大学受験とかでも勉強はできますが、私の父はどうも普通の全日制の学校に行かせてやることが幸せなはずなんだと思ってたみたいなんですよね。

勉強する権利がなく、学校に行かせてもらえず働かされたり戦争に巻き込まれたりする子も居ることを考えると、確かにそうなんです。それも一理あります。

食べ物に感謝しろ、飢餓に苦しむ人も居る、残すな、好き嫌いするな!→後に食品アレルギー問題が世に知れる(もちろん少食の人も居る)とかに似てるかもですね。

しかし、父は私が就職でつまずいた時(やはりこの時発達障害未診断で投薬もしていない、しかし一方で父のコネを使った)に家庭内で家事手伝いになるのを許してくれました。

父はこの時、蓄えはあるけど病気で、他に世話を頼れる人が居なかったからもありますが、父は学歴は良い就職・キャリアのステップアップにならずともそれ自体に価値があると考える人だったからもあります。

それがいいかどうかは別として、父はそういう考え方や価値観の持ち主でした。

せっかく学歴を積んでも良い就職ができないと意味がないとは考えない人でした。

女性なら条件の良い相手と結婚→専業主婦でも子供に勉強を教えるという間接的な学歴の活かし方もあるでしょうが、そういう活かし方もしなかったとしてもね。

さすがに、もし私が娘でなく息子なら、他の条件が全て同じでも家事手伝いして家に居てくれたらいいとは言ってくれなかったかも知れませんが…。

No.3

小2の時の担任の先生が私にとってとても怖くて苦手な先生でした。

私の母は小1の時に他界したので、この時私は既に父子家庭で育っています。

私以外には人気があるように見えた先生でしたが(当時とても若くて美人だったのもあるかと)、正直、私にとっては苦手な先生でした。

一見、明るくハキハキした先生でしたが、一方で何でも競争させて優劣をハッキリさせる先生でした。

後に分かることですが、2種類の発達障害があり、ヌケている上に極端に運動音痴でもある私はこの先生に基本的に冷遇されていました。

国語能力だけ買われて、国語の朗読や作文発表の時だけいい扱いを受けて、それ以外では冷遇されていたのです。一応、歌(音楽)や絵(図工)にも自信はありましたが、あの先生はそういう副教科は体育以外はあまり重視していなかったのかも知れません。

内心、あの先生はキツいから苦手だと思ってる子も当時はかなり居たかも知れませんが、優遇されてイケてる扱いを受けてる子の方が表面上声が大きくなってかき消されたようになったのかも知れません。子供って正直で残酷ですしね。

そしてこの先生は極端な給食完食主義の先生でもあり、好き嫌い以前に極端に少食で食べるのが遅い私は毎日叱られながら居残り給食させられていました。

そのせいで、当時の私は食べるのが遅いことにとてもコンプレックスを抱きました。そして、給食の食べっぷりがよく早食いな子は優秀でリア充で、人を待たさない配慮ができて性格も育ちも良いと思ってもらえる、私は生まれつきその才能が全くなく極端に食べるのが遅いからまるでその逆なのだというイメージになってしまいました。

みんな傍観するだけか、先生が怒って午後の空気が悪くなるのがイヤで「はやくくえ!」と私に言う子が居るだけで、それが辛くて「死にたい…。」と当時よく言ったせいで、先生を疑問視して欲しかったのに私が変な子に見られてしまったのが中学卒業するまで噂で続いたのですが(父には相談できませんでした)、

いっそ小2だったあの時、ムリしてご飯(かパンの日はパン)やおかずを詰め込んで給食時間内に食べてトイレで吐いて摂食障害になって、高校卒業以上の年齢になるまで通学できず病院か障害児学級→支援高校などで育ち、後に発達障害も判明して投薬とかになってたら私にとって幸せだったのかなとか思ってしまいます…。

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