この世界はあなたが考えているものが見えるように出来ている。 自分が何を考えてい…
この世界はあなたが考えているものが見えるように出来ている。
自分が何を考えているのか、それを体験出来る魔法の世界だ。
隣に座っている人のことが気に入らないと、嫌な奴に見えるようになってる。
自分のことが嫌いだと、自分である事が苦しくなるような体験が出来るように導いてくれる。
ポジティブになろうと考えると、ポジティブにならなければいけないという状況、つまりネガティブな状態を体験し続けることが出来る。
嫌いな奴のことを好きになろうと考えると、嫌いな奴を好きになれない葛藤を体験し続けることが出来る。
そう、思考が投影されているのだ。
しかしあなたはこう言うだろう。思考ではなく、事実あいつは嫌な奴だと。
その通り。
確かに嫌な奴だ。しかし、相手が悪い奴だというイメージを持っているのはあなたであり、目の前にいる相手とは別人なのだ。
相手にも良い側面があるだろう、それが人間というもの。しかし、相手がどれだけ良い行いをしたところで、私の頭の中にいるアイツが良い人物として認識が変わることはない。悪い奴のままだ。
というように私の頭の中にいるアイツと目の前にいる相手は別人なのだ。それが真実である。
私は頭の中で作り出した相手のイメージ、嫌な奴という人間性を、目の前にいる全く別人である当人に重ねて、こいつは嫌な奴だと見ている。それはとてもリアルだが、残念なことに妄想の類でしかない。
罪は私の頭の中に存在していて、目の前の当人にあるわけではないが、私の目には当人に罪があるように見える。これがこの世界の魔法。
見たいものが見えている。私が見たいものを見せてくれている。
それは相手も同じで、相手の頭の中にいる私は嫌な奴に違いない。とても罪深い奴に写っているはずだ。しかしそれは相手の罪であって私の罪ではない。だが、相手は私の罪だと因縁を付けるだろう。
このように、この世界は自分が考えた脚本通りに物語が進む。思いのままにあらゆる出来事が巡り来る、夢と同じ仕組みとなってるいる。
夢。そう、これは映画なのだ。
あなたが体験している人生も、あなたを主人公とした映画で、あなたは自分という役に成り切っている名俳優だ。
あなたが認識している自分という存在は真我ではない。悲嘆に暮れているあなたは、映写機が放っている光と影によって映し出されたキャラクターに過ぎない。真のあなたはその後ろに存在している。ちょうど俳優がそうであるように。
ほんの少し思いに耽るだけ、たったそれだけで人生を創造をしている。例え何も動かなくても、何も良いことをしなくても、何も改善されなくてもだ。
思考、それはあなた自身ではない。
脳、それもあなた自身ではない。
思考は絵の具であり、脳はツールに過ぎない。
それらを使って思いのままに、自らの人生を絵画の如く、または絵本の如く、またはホラーの如く描いているのだ。
一ページ、一ページ。
あなたは自らの人生に何を見るだろう。そこに写し出された色彩はあなた自身なのだ。
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その通りだね
今、目の前にある世界は
自分が作り出した世界だと
仏教で教えられている
例え話として
極端な事を言えば
悪い事をして
刑務所へ入る事になった
そこで悲惨なイジメに合い
アイツやコイツのせいにする
この世界を作ったのは誰ですか?
こうなる訳です
実際は
自分の外に敵など居ない
ところが
人間の目に映るのは
アイツやコイツのせいに見えてしまう
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