感情論が否定されたり馬鹿にされるけど結局最後や経緯に感情論が入ってる人が多い。 …
感情論が否定されたり馬鹿にされるけど結局最後や経緯に感情論が入ってる人が多い。
論理的に考え論理的に決めるのは賛成。感情100の論理0は良くないと思う。だけど感情論って位置づけや表現が悪かのような考え方に疑問がある。
感情論と受け取る側の言葉の処理のやり方、伝える側が上手く内容を伝えられているか。本当の趣旨や経緯を話す人間達が理解できているか。これらは検証して良いと思う。
常に感情的に仕事をする人は流石にほぼいないと思うし、論理的や仕組み上その行動が必要だから行う。そういう部分は誰しもが感情論を捨てて取り組んでいる。でもその中で疑問や問題が起こる場合に、感情論に発展する事は普通だと思う。そのうえで判断は論理的になっていいとも思うけど、感情が入る事は悪ではない筈。感情論も一定の論理や経験があると思う。
そもそも未来について誰しもがほとんどの事が定かじゃない中、自分達がこうしたいと思い行う事を感情論と括り否定されるのは何か間違っている気がする。
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この掲示板でもよく見かけます。
女・子供・年寄りは感情的だ。
そういう筋から議論しようとする人が。
不確かで曖昧な人間の感情を論理的、理性的に扱うことが人間の営みには不可欠です。
代数や幾何学の話をしているわけでもないのに、人の意見を感情的だとレッテル張りして封殺したり冷笑したりするだけの行為に何の意味があるんだろうと思います。
良いこと言いますね。
ただ感情論が悪いことのように言われているのは、反射的な感情に振り回されて判断や行動をする人が多いからのようです。
(ムカついた→即ブロック)
熟慮(自己理解)+意思+感情であれば、その人なりの意見になります。
(ムカついた→自分、なんでムカついたんだろ?→そういう人と仲良くしたいか?→嫌だからブロック)
何のために論理が在るかって、感情を効率よく気持ちよく生かすためだと私は思っています。
論理の目的や基礎に感情論がそもそもあると思っています。
なぜなら生物は使命や指令ではなく感情で生きているから。
仕事だ役割だと言っても、それを遂行する、拝命する判断の下地には感情がある。
ただ、より重要な感情のために雑多な感情を犠牲にする必要があって、論理はその道具でしかない。
切り捨てる感情は必ずしも自分の感情とは限らないけど。
「感情論不要」なんて主張は、まさに自分の感情のために他人の感情を否定する論理だと思います。
もしくは、「生の感情をむき出しに振り回すな」という話ではないのかなと。
それは他人の感情を無下にする振る舞いだから。
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