世の中は、禁止事項で溢れているんだ。何から何まで禁止されている。君が一人で存在し…

世の中は、禁止事項で溢れているんだ。何から何まで禁止されている。君が一人で存在してる時には問題ないけれど、別の人間が現れた瞬間にたくさんの禁止事項ができる。そして、僕たちの周囲には、無数の、根拠不明の禁止事項があるんだよ。許可されたことをかろうじて、実行できているだけ、と言ったほうが近いかもしれない。だからね、僕は不思議で仕方ないんだ。どうして、君たちは決まって、『人を殺したら、どうしていけないのか』というそのことだけを質問してくるのか。それならば、『どうして人を殴ったらいけないのか』『どうして他人の家に勝手に寝泊まりしてはいけないのか』『どうして学校で焚き火をしたらいけないのか』とも質問すべきではないかな。

今言ったように、世の中には無数に禁止事項がある。そして、その、さまざまな禁止事項の中でも、取り返しのつくことはまだ、どうにかなるんだよ。たとえば、君から財布を奪っても、そのまま返せば元には戻るし、君の服に水を零しても、最悪の場合でも、同じ服を買ってくれば、物は復活する。僕と君の関係はぎくしゃくはするけれど、かなり元通りにはなる。ただ、死んだ人は取り返しがつかない。
何も、命が素晴らしいものだから、などというつもりはないよ。たとえば、世の中で一冊しか存在しない、希少なマンガ本が燃やされた場合も同じだ。もう二度とそれは、手に入らない。僕自身は、命とマンガは同等には思えないけれど、客観的に理屈を言えば、その二つは一緒だ。だから、君は、『どうして人を殺してはいけないのか』と訊ねる際は、『どうして、超レアなマンガ本を燃やしたらいけないの』とも訊ねるべきだよ。

殺人を許したら、国家が困るんだよ。たとえば、自分は明日、誰かに殺されるかもしれない、となったら、人間は経済活動に従事できない。そもそも、所有権を保護しなくては経済は成り立たないんだ。そうだろう？自分で買ったものが自分の物と保証されないんだったら、誰もお金を使わない。そもそも、お金だって、自分の物とは言えなくなってしまう。そして、『命』は自分の所有しているもっとも重要な物だ。そう考えれば、まずは、命を保護しなくては、少なくとも命を保護するふりをしなくては、経済活動が止まってしまうんだ。だからね、国家が禁止事項を作ったんだよ。殺人禁止のルールは、その一つだ。重要なものの一つ。そう考えれば、戦争と死刑が許される理由も簡単だ。それは国家の都合で、行われるものだからだよ。国家が、問題なし、と認めたものだけが許される。そこに倫理は関係ない。
だから、国家によっては、もしかするとどこか遠いところの国では、人を殺しても良い、とされているかもしれない。僕は知らないけれど、世界のどこかにそういう国やコミュニティがあるかもしれない。殺人禁止は、あくまでも、国家の都合に過ぎないんだから。だから、そういう国に君が行って、もし、誰かを殺害したり、もしくは誰かに殺害されたりしても、それはいけないことではない。
殺人が許されない理由は、倫理的な理由を除けば、法律で決まっているからとしか言いようがないんだ。
ただね、はじめに言ったけれど、僕自身は、国家の都合やルールとは無関係に、人を殺してはいけないと思う。人がこの世からいなくなって、自我が消えることは、とてつもなく恐ろしくて、悲しいことだから

伊坂幸太郎　マリアビートル　より

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