今日も苦しみ悲しむ国民が大勢いる中で、他人は他人と切り捨てて自分のことしか考えな…
今日も苦しみ悲しむ国民が大勢いる中で、他人は他人と切り捨てて自分のことしか考えない。
そんな気持ちになれば楽だろうから、大抵の人は、そういう気持ちをつくる創造材料を歓迎する。
だから、こういう理解を求めるのは、経験を伴えた苦しみ藻掻く人でないと難しいね。
経験を伴えてもいないのに苦しみ藻掻く人は、頭脳が働いてしまうのだろうか。
自責の念に駆られながら、そうした問題に取り組むことを拒否したいんだろ。
加害的事実や反省点にあるのに、なにも悪くない。
そのままでいいんだと認めてもらいたい。
そういう心理にあるのではないだろうか。
21/09/22 00:49 追記
堂々と自由に生きてよいんだという世界観に生きたい。
それなら、ひとりで生きているなら手っ取り早い。
でも現実は、そうではないのだ。
そんな世界観は、この国民生活にはない。
この国民生活では、利他業の課題に残されるだけではないか。
そこにだけ堂々と自由に生きてよいんだという世界観は拡がっている。
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新しくスレ立てられなかったので、ここに書きます。
たとえ酷い迫害にあっても腹を立てずに受け入れる精神とはなんでしょうか?
これがあれば最高ではないですか?
いや、こういうものを求めさせられているのでしょうか?
これについて真剣に考察していきたいです。
知恵をかしてください。
迫害され腹を立てたくないから人と関わりを持ちたくなくなる。
こういう視点もありますよね。
なので迫害されても腹を立てず人と関わっていける強さといいますか。
寛容の心といいますか。
そういうものが大切なのではないでしょうか?
誰も迫害されない世界を目指したい気持ちでいましたけど、それは無理なのかなと思うようになってきまました。
迫害に対峙した人物ではガンジーが有名ですよね。
イエスキリストも仏陀も、そういう方だったのでしょうか?
やはり、ここにくるのは正しい信念のような固い意志か。
それとも、正邪受け入れる、柔和な精神なのか。
どちらでもないのか。
どう思われますか?
幸福感は知っています。
幸福が何処にあるか知っています。
ガンジーさん達も、そういうものを目指していたでしょう。
それを目指せないなら、いったい。
どうすればいいのか。
なにをすればいいのか。
意見をお待ちしています。
束縛があるからこそ、私は飛べるのだ。 (悲しみ苦しみを学び)
悲しみがあるからこそ、私は高く舞い上がれるのだ。 (悲しみ苦しみをバネに)
逆境があるからこそ、私は走れるのだ。 (悲しみ苦しみを克服して)
涙があるからこそ、私は前に進めるのだ。 (利他と思います)
不屈の精神を獲得するために、たくさん言葉が残されていますが。。
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