すべてを受け入れられるとき、そのすべてとは自力ではない。 しかし、すべてを受け…
すべてを受け入れられるとき、そのすべてとは自力ではない。
しかし、すべてを受け入れた後、そのすべてとは自力となる。
だから人生とは、表現のしようがないのだ。
その時、発せられる言葉のすべては無駄口だろうとの思い。
その時、発せられる言葉のすべてに無駄口はないとの思い。
天の恵みに感謝をしながら黙々と生きる寡黙な精神というのは、そういうところに宿るのだろうか。
そして、それは表現のしようがないものである。
賛否両論あると思いますが、ご理解いただける方がおりましたらご意見を、お聞かせ願いたいのです。
色をつけたいと思っています。
よろしくお願いします。
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自尊心とか偏見とか
人間は持ちやすいので
全てを受け入れがたいんす。
好き、嫌いがあって生身の人間なんす
思う事は簡単ですけど
それさえも一定では無い
10年前も同じ事を思ってましたか?
10年後も同じ思考だと言い切れますか?
仏教で云う最終到達点は
悟りでしょう。
諸行無常とは、常に変化して
一定では無い。と私は認識してます
それは、生在るものだけに限らず
全部の物を指す
最終の悟りとは、仏教で言えばブッダでしょう。
それは私も依存は無いです
それを学ぶ事は容易いけど
その領域に達するのは、余りにも遠いと
感じています。
私は思うんです
人間は人間の眼でしか
価値創造が出来ない
他の動物でも自然でもなんでも
他の思考にはなり得ない
人間であるが為に、
人間の枠を越えれないと。
人間の為の価値創造とは
人間にしか機能しないんじゃ無いかな?
とも思う。
それは、人間に生まれ出た定めというか
それぞれの役割というか
人間の枠の中で
人間とはなんぞや?
と問う生き物のように思えます
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