なんかガラケーやスマホが普及してから人の感性と言うかうまく言えませんが変わってな…
なんかガラケーやスマホが普及してから人の感性と言うかうまく言えませんが変わってないですか?
昭和、平成初期のライブやお祭りといったらみんな自分の眼で焼き付けて、全身で楽しんでるイメージがあります。地域のイベントごとでも楽しんでやってる印象があります。
それが今では撮影やSNS、祭りやライブに来てるのにスマホをいじるなどそっちに夢中になる人が多い印象で、またネットで何でも調べられるので当時のようなこれは珍しい出し物とか屋台の食べ物などそういう感動も昔に比べてないですよね?
事実私も携帯を持ってなかった頃と今では感じ方と言うか、なんか違うんですよね。。
便利だけど情緒の乏しい世の中になったなあと思うんです。
みなさんはどうでしょうか?
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一概には言えませんね〜
そういう側面もあるでしょうけど
私はSNSでひょんなことからトルコ人の女の子と知り合い、最初は拙い英語でやりとりして、彼女の言葉で挨拶したくなったからトルコ語を勉強しました
日本に遊びにきてくれて、今度は私がトルコに行きます
SNSがなかったら興味もなかったですねトルコは
世界が少し広がったなと思ってます
トルコで見たものは、目に焼き付けてくるつもりでいますよ
写真も撮りますけどね
まぁ結局、使う人次第でしょうね
それは違うと思いますよ。
先日かなり遠方まで友人達と花火を観に観光旅行してきましたが
皆スマホ撮影しながらも生の迫力に感動しました。
決してスマホ映像だけでは感じられない感動があります。
また友人達が身近に居て一緒に共有する事での感動も格別な思い出に
なります。そしてそれを少しでも共有する手段にスマホがある訳です。
昔からカメラですがカメラよりリアルな感じ方は可能ですが
生の感動とは別物です。
それから何でも調べられると言うけれど誤情報がGoogleAIにもあります。
誤情報を見抜く知識は日頃の知識の蓄積であり
より多くの考察機会を与えるツールとして海外ニュース含め
視野が広がると感じますね
先日も海外の同業者や同じ趣味の仲間と会話し
ヒントを得て実践しようと思ったばかりです。
情緒の形が変化しただけだと思います。
少なくとも記憶って留めるには限界があるし、写真でもSNSでも思い出せる媒体があるのは悪い事ではありません。
他人が祭やライブでスマホを弄っていてもそれは自分の思い出と関係ありませんしね。
感動が少ないと言うのであれば、そもそも調べなければ良いのです。
そうでなくとも昔からある情報誌に前情報は書いてあります。
使う側の問題でもあるし、時代の流れを否定しても不毛だなって思います。
昭和のものが失われても、令和で新しいものが生み出される。この先の時代もその繰り返しでしょう。
かつて私達だって新しいものを求め続けましたもの。ガラケーだって年1くらいで買い替えてましたよ。
最近では若い子達がカセットなどをエモいと捉えています。
昔の曲がカバーされて親子で共通の話題が出来ることもあります。
失われていくからこそ得られるものってありますよ。
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