私の祖父は日本で生まれ育った日本人ですが、戦時中は台湾にいました。台北一中(現在…

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2025/03/06 17:22(更新日時)

私の祖父は日本で生まれ育った日本人ですが、戦時中は台湾にいました。台北一中(現在の台北市立建国高級中学、通称:建国高校)に通っていたらしく、滞在というよりも、がっつり生活を送っていたと思います。
そこで私が気になっているのが、「当時はどのような立場/地位/職業の日本人が台湾に行っていたのか」ということです。
戦いの最前線に行く人もいれば、戦略を練る人や、整備に携わる人もいたと思います。さまざまな部門があった中で、台湾に移動することになった日本人にはどのような背景を持つ人が多かったのか、ということを知りたいです。

祖父は戦後も存命でしたが、私が小学生の頃に亡くなってしまったので、今となっては詳しい話を聞くことができません。日記を遺していたので、幸い当時の生活の様子はある程度わかるのですが、なぜそこに行くことになったのか、という部分がわからず…。
ご存知の方がいらっしゃれば、一般的なことで十分ですので、教えていただけると嬉しいです。

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No.4255714 (悩み投稿日時)

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私の祖父母が戦前からに台湾に移住していました。
祖父の親戚がかなり高位の軍人(将官)だったので台湾へ異動の際に、祖父母もそれに従って渡航したみたいです。

戦争前の台湾は非常に文明が遅れていて、まだ簡素な木組みの家に住んでいる人達が大多数で、インフラもまともに整備されていなかったそうです。
祖父の親戚は台湾を日本が統治する目的で渡航し、インフラ整備や治安維持の指揮官として赴任したそうです。

祖父も移住後は重機の操縦などをして働いていました。
まだ戦争が始まる前なので毎日が平和で、祖母は台湾の生活は不便ではあったけど楽しかったと言っていました。

台湾の人達は初めは日本軍が来た事に驚愕して不安そうにしていましたが、日本から渡って来た人達が様々なインフラ事業の開拓や子供達が通う学校を設立したり、食料の自給自足を台湾の人達へ教育したりして、現地の方の多くからとても喜ばれたそうです。

特に台湾の人達が日本人に感謝している事は、『欧米人達は植民地にして物を奪う事しかしない。しかし日本人は我々に教育をして「自立しなさい」と促す。そして日本人と我々は、常に同じ目線で毎日同じ量の汗を流した。』というものです。

今でも台湾のご年配の方達の中には、日本人を見ると手を合わせる人がいるそうですね。
当時の日本が今の台湾の基礎を作ったと言われているそうです。

しかし悲しいがな、戦争が始まると台湾で暮らしていた日本人は次々と戦地へ送られました。
祖父も例外ではなく、日本軍最大の軍事拠点であるトラック島への赴任が決まります。
そこで祖母は祖父と別れて日本へ帰国したそうです。

一人で帰国する祖母に台湾の人達は最後まで優しくしてくれて、つたない日本語で書いてくれた手紙をたくさんもらったそうです。

祖父はその後、軍艦の巡洋艦鳥海に乗り、いくつかの海戦を経験し、ラバウルへ転任になったそうですが、祖父が船から降りて次の海戦で鳥海は撃沈されたとのこと。

結果、祖父は終戦まで生き残り、日本で平和に暮らしていましたが、「いつかはまた台湾へ行きたい」と孫の私にもずっと言っていました。

祖父母がいた頃の台湾は、日本の下町みたいで外国にいる感じがしなかったそうです。

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