妹が友達の誕生パーティに招かれ、その時の写真が出来上がったので、見せてもらいまし…
妹が友達の誕生パーティに招かれ、その時の写真が出来上がったので、見せてもらいました。
料理が写っていたのですが、お子様ランチっぽい感じで、五目ご飯、鳥の唐揚げ、枝豆、バナナが一人ずつワンプレートに盛られ、他にケーキなどがありました。
美味しそうだった…
私は友達が一人もおらず、誕生パーティなんて誘われた事もありません。
小3の時、クラスの女子(A美)が誕生パーティを開催するとの事で、招待したい人に声をかけていましたが、私は彼女に声をかけてもらえませんでした。
A美がどういう基準で招待者を選んでいたのかは分かりませんが、嫌いな人間を自分の誕生パーティに呼ぶ訳がないでしょうから、少なくとも私はA美には好かれていなかったという事です。
しかし私はA美に嫌がらせをした記憶もないし、約束を破ったとか、迷惑をかけた覚えも一切ありません。
A美に声をかけられていたクラスメイト達は、クラス内でも人気のある人達だったと思います。
明るい、勉強が出来りゅ、スポーツが達者など…。
それに比べて私は勉学は得意ではないし、大人しく目立たないタイプで、虐められていました。
A美は虐められるている私など呼ぶのはイヤだったんだろうと思います。
私だって、もし自分の誕生パーティにお招きするなら、日陰の存在で虐められているような子より、人気者でルックスも良くて、貧乏人より裕福な家庭の子の方が良いに決まっています。
私は母子家庭で貧しいし、A美はお父さんがいて、一軒家に住んでいるし、私では足元にも及ばないのだと言われました。
A美はクラスでも目立つ存在で、積極的で、正直言うと、ちょっとでしゃばり…なタイプです。
担任は年配の男教師で、大正末期生まれの、軍国時代に青春期を過ごした方ですから、余計な事は言わない男っぽい感じの寡黙な先生で、しかしながら、悪い事をした時はちょっと厳しい躾がありました。
ある時、教材が入っていたダンボールが床に置いてあり、私はそれを足で動かした(ズラした)のです。その様子を見ていた教師は、「足で動かすとは何事だ」と怒り、僕の首根っこを掴み、5cmくらい宙に浮くくらい吊り下げました。今、考えれば先生の仰る通りで、殴られてもおかしくないくらいの酷い行為を取ったなです。担任は寡黙でちょっと怖い感じでしたが、理不尽な事をしたり、生徒によって対応差別をするなど、そういう事は一切しない人でしたので、イヤだったという記憶はありません。
そういう意味で中3の時の担任は今でも忘れられないくらい、不条理で、最悪な教師でした。当時、40代半ばくらいでしたか…男の教師でしたが、成績の悪い生徒には陰湿な意地悪や、横暴な事をする、嫌らしい人間でした。答えられないだけでグーで頭を殴りつけられたり、遠目から僕の姿を見付けると、「ちょっとこっちに来い」と言わんばかりに呼びつけて、「(制服の)ボタンをきちんとしめろや」と、物凄いイヤな顔付きで注意してくるのです。制服のボタンなんて皆、外してたり、きちんと全ボタンをしてる生徒なんていません。要するに、私に難癖をつけたくて仕方がないんですよね。その為に粗探しをするのです。毎回物凄いキレ方で、僕の事が憎くて憎くて仕方がないような感じで、半ば教師による生徒苛めみたいなものでしたよね。しかしながら、当時は今みたいに保護者
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>> 1
愚痴?
がモンスターペアレント化する事もなく、学校=商売人、保護者=お客様、という図式もありませんでしたから、我慢する他ありませんでした。親が『教師は人格者であり、立派な存在』という時代に育っていますし、教師(学校)の言う事は絶対だったわけです。ですから、子供が「(先生に)こんな事をされた、あんな事をされた」とチクった所で、普通の親は「アンタが何か悪さをしたんでしょ!」と先生側につくのが普通でしたし、簡単に被害者になれる女子と違って、母親は息子が被害者になろうとしても「男のくせに」というのがあるので、認めません。
当時は母子家庭はそんなに多くはなく、クラスで2〜3人くらいしかいませんでしたから、クラス名簿で保護者の名が女の名前である事が恥ずかしかったものです。普通は父親の名前が載る訳ですからね。一男、正幸、憲彦、といった男の名前が並んでいる中、自分だけ、○子と女の名前になるわけですから、それが劣等感で、「お前んち、父ちゃんいねーのぉ?(笑)」「母子家庭なら貧乏だろ(笑)」とからかわれ、惨めな思いをしたものです。実際、裕福ではありませんでしたし、やはり父親のいる家庭には敵いませんでしたので、言い返す事もできず、離婚した母親を恨みました。(お前が離婚しなければこんなイヤな思いをしなくても済んだのに)と…。
しかしながら、母親にこのような気持ちを伝えたところで、受け止められる器がない事は知っていましたし、父への憎しみを息子にぶつける人でしたから、通じないだろうと諦めがありました。殴る蹴るの暴行、タバコの火を手につけられそうになったりと、手に負えない母親だったと思います。いくら父の事を憎み恨んでいたからといって、僕に当たり散らして、憂さ晴らしをしたって、それは僕に母親を憎む心理を植え付けるだけなのに、彼女は母親ではなく女になってしまって、どうしても僕を子供としては見られなかったのです。その頃から僕の精神はおかしくなり、夢遊病のような症状が出て、夜中に奇声を上げたり、突然、泣き出したりと、心が崩壊し始めました。母からの暴行による外傷で学校から呼び出しを食らい、児童なんとかいう相談員同席の元、母と僕はカウンセリングのようなものを受ける事となりました。が、母親の拒絶は激しく、皆さん手を焼いていたようでした。僕はクラスで虐めにも遭っていた為、先生らにその事を問われましたが、事実を言うと
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