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信仰を究められてるような方なども 未来進行形を含めて殺人をも許せという曲解的解…
信仰を究められてるような方なども
未来進行形を含めて殺人をも許せという曲解的解釈があるのではないかと思えています
そこに自己正当化するためではないかと疑念も沸いてまいります
悟りを開くとか
すべてを許すっていうのは..
そういうことにもなるものでしょうか?
こたえられる人はいるのでしょうか?
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悲しみ、恨み、怒り、全ての負の感情ですね。
愛情も、創造物に向けられた過剰なものは善とはしません。
神を愛する故の愛でなければ、それは創造物に執着した歪んだ愛、となります。理解する事は難しいかもしれません。
祈りながら死ぬことができるのは一部の恵まれた者たちだけです。
ほとんどの場合、苦しみながら痛みに耐え、不慮の事故に遭って一瞬で、と言った具合で平和な心のまま祈り続けながら死を迎えるという平和な死はそれだけで奇跡でしょう。カトリックはそれを願い祈ります。
2)
そういう道と言いますが、最も困難な道では。
自分のありのままを受け入れ、神に全てを任せ、なおかつまるで自分だけが頼りであるかのように強く生き続ける。
これが神の作った教えなので、この生き方は難しくもありますが、心は安定し平和でいることができます。
1さんクッキー破損でレスから返信しています
本当に疑問なのでお聞きしますが、神への愛というのは
人を愛して幸せに微笑ましく暮らすことと何か違うのでしょうか?
人を愛して幸せに微笑ましく暮らす方法としましては慎ましく礼儀正しく生きる姿勢など必要になってくると考えています
自分だけを頼りとするなら社会なんかないほうがよくないですか?
神への愛は、人を愛して微笑ましく暮らす事だけではありません。
隣人を愛せ、というのは自分が楽しめというより人に尽くせ、という意味です。
生きるということ、人と共存するという事はチャレンジの連続だったりするわけですが、その中で神の教えに沿って自分を優先せずに、人を優先する。
例え自分にとって不都合でも、人に尽くすためにあえて困難な道も選ぶこと。
そして生きる上で、善悪を学び、知り、常に善の道を選択するように心がけることです。
これら全てが神を愛するという意味です。
神は人間をコミュニティーに属して暮らすようにつくりました。
人は人を助け合い、関わることで様々なことを学び合い、成長します。
自分だけを頼りにするという意味は、実際は神に全てを任せながら、まるで自分しか頼れる人間がいないかのように努力をするという意味です。神は自らを助ける者を助けます。
一人きりで生きる選択もありますが、神なしで一人きりでは愛もなく、ただの孤独です。
自らを頼りにするの意味はわかりました。
現代は、すべてが過度過密です
人に尽くすとは何かを考えますと、簡単ではありません
バランスが明らかにおかしい
基本規範が明らかに異常です
国内の適正人口は500万人前後と言われるわけです
しかし世論は少子化問題で騒いでいる
背景に何があるかということを考えねばなりません
人に尽くす困難な道とは何か何ができるか何が素晴らしいのか
その意見を申し上げれば納得してもらえる人は少数おられるのでしょうけども目標を立てることさえ直ちには不可能な話です
簡単にまとめてお伝えするのは難しいですが、とても悩ましい
あなたは、疑念に囚われていますね。どうして疑念に囚われているかというと、あなたは、意識が自己愛になっているからです。自分を守るという利己主義・自己中心主義になっているのではないでしょうか。
神の摂理は、利他愛になります。自分を忘れて、他の人に奉仕するところに神の愛が流れます。まずご自身で体験されることをお勧めします。
人に尽くすとは、自分の私利私欲を優先するのではなく、相手にとって不利(と一見思えることでも)善の行いをするということです。
簡単な例ですが、ある人にとって無価値なものをうまく口車に乗せて、通常より高値で売りつけるのは自分の売り上げになり功績と収入につながりますが、善の行いではありません。相手に対する善の行いとは、相手にとって良いと思うものを正当な値段で売ることです。
もう一つ例で言えば、障害児を理由に中絶する事です。これは自分が自分自身の子供に煩わせられたくない、苦労したくないことを優先した決断です。その子のためと口では言っても、実際は自分の都合のためです。
全ての命は神が宿した生命であり、魂です。要するに神の意図があってその人間はその親に宿ったということです。
それでも自分の狭い視野だけで、苦労を避ける為に、自分の子供を手にかける。これは神に対する大きな反逆であり罪です。
人に尽くすというのは我が子に対してでも同じです。
愛する子供を苦労すると想定しても生み育てる。それが神に全てを任せ、神を愛するという事です。すると自分が想定することができなかった幸せが訪れます。それは神が万能な故であり、人間には限界があるからです。
>> 国内の適正人口は500万人前後と言われるわけです
これもまた、人間の限りある知識と偏見が作り出した考えです。神に全てを任せているなら、このような事に気を囚われません。10年以上前に、とある学者が全ての人間に居心地の良い庭つきの一軒家を与えた場合、テキサス州一つで全員収まると発表をしました。このように、一つの説には必ず反対の説が存在します。人間には限界があるので全ての真実を知る事は不可能だからです。
命を大切にしなければならないということに異論はまったくないです
しかし現実は命を粗末に扱っています
せっかく生まれてきても苦労の結果、自ら犠牲になる人が日本は先進国トップです
命を大切にしなければならないということ、その根底が崩れているのでそれは何とかしたいと思っていますよ
そういう問題に関しても信仰に委ねれば個人としては奇跡に守られるようなこと仰っているでしょうか
それであればそのような信仰にある利他愛はなんだろうかと考えています
それは利他愛のための信仰を個人が行ったとしても、その利他愛のための信仰は奇跡を起こさない
そうではないのですか?
そういう疑問があります
現実的な行動を起こすならば何が現実的な利他愛と生命を敬う解決策となる行動なのか?
そういうところを聞かせていただきたいのです
ほか神にすべてをゆだねているなら気にならないとの人口に対する意見ですが、必要があって世界人口が増加している
増加要因は決して肯定的な理由だけには限らず否定的な理由もある
でも信仰に委ねるならば肯定的理由か否定的理由かは人類が学び知るべき問題の本質にはないということでしょうか?
極論ですが仮に人口過密で様々な理由により大勢がなくなったとします
それでも信仰に委ねた人たちだけは生き残る
そういうことですか?
その立場にあって、その状況状態をどのように考えるものですか?
やはり人口と扱う問題は気にするべきことではないかと思えています
主さんの書き方で理解できない箇所がいくつかありますが、理解できる部分に対して書きます。
信仰は利他愛のためのものではありません。以前のレスにも書きましたが、神を愛する上での隣人への愛です。隣人への愛だけが信仰の全てではありません。
奇跡は実際に起きますが、個人個人違うものであり、その人にとって意味があり、必要なものが大半と言えます。一口にこのような奇跡が起きるとは断言は出来ません。そして奇跡は信仰するから必ず起きるものとも言えません。神がその時、起こしたい人間に対し起こすものです。その真意は神にしかわからないでしょう。
現実的な利他愛や生命を救うことはそんなに難しく大掛かりなものではありません。
生命を救うという点では中絶反対の意見を唱えるだけでもそれは生命を救う一つの動きに繋がります。それまで当たり前のように我が子を殺す権利があると主張する人間が立ち止まって考えるきっかけになります。中絶反対デモなどもその一つの大きな動きです。
子育てで疲れている母親の代わりに子供を見てあげる事も生命を救うことと共に、利他愛になります。
困っている人はこれに限らず周りに目を向ければいるはずです。その人たちを神が教える善の道へ助けるのが善です。
何が善かは勉強しないと理解できないほど現代は混乱満ちた世界なので、神の教えや真理を学ぶ事はライフワークと言えます。
世界人口についてですが、それは主さんがどうにかコントロールしなければならない、またはコントロールできるもの、と思っているから気になるわけです。
信仰があれば気にならないという意味は、神が行うことに誤りはないという確信にあります。神は地上で繁栄しなさいと教えたわけで、その教えを守る事が信仰となります。
ー続く
ー続き
人間が限られた知識で何かの問題点を見つけて、神の教え以上の結果をもたらそうという考えがそもそも傲慢さ故であり、人間を苦しめます。
それが理解できずにいると人生で本当に大切なことに意識がいかないまま、無駄に足掻くことに人生を消費する生き方をします。
神は一度もこの世での死から守ることを約束していません。災害で死んでも、事故で死んでも病気で死んでも、いずれ人は確実に死にます。
神が教える事は、死をいかにして免れるかではなく、限られた命をどのように使うかです。死でさえ、人を救うために我が身を犠牲にしたり、信仰を守り抜くための殉教者は後に聖者として敬いを受けます。
そうですか。私は、そういう信仰を持つ覚悟はないですね。
私の立場なら信仰と引き換えに死にますか?
全て委ねられるほどのなんて、とてもとてもです。
その覚悟を持てば奇跡が起こるといいますが、起こらなければ確実に死にますから。
だから委ねられないです。
その死が救いだとは思えません。
私が生きるのは私の責任だと思っています。
死への恐れではありません。
死に値する行動があると考えれば死にますよ。
信仰心を先に抱く必要があるのでしょうか_?
どうすれば信仰心は先に抱けますか?
聖書を読んでも無理だと思います。
奇跡は信者に限られたものではありません。先程も書いたように、神自身にしか理解できない理由で選んだ人間に奇跡を与えます。聖書にもありますが、与えられる側の人間が信者じゃない場合も多々あります。
神を一切信じていなかったが奇跡を経験し、信じるようになった人間が身近にいます。その人は形容するなら気は強いが、素直な部類の人間です。
彼は、神に向かってある時に本当にいるなら信じさせて欲しい、と半信半疑な気持ちで、しかし強く願ったそうです。その後白昼夢のように見たものは、彼に神の存在を確信させたそうです。
私やその他の人間が同じものを見て同じように確信を持つとは限りません。
そして信じない者は例え何を見ても理屈をつけて信じない選択をします。
神は幼い子供のように純粋な心を持たなければ天国へ行けないと教えています。意固地で自分の考えにのみ執着が強く、素直さに欠ける人間が住める世界ではないということです。
聖書を読めば信仰心を持てるわけではありませんが、神を知る事ができます。
仮に好きな人ができたとします。好きになれたのは、その人の存在を知った事が始まりです。そしてそのあとも少しずつ相手を知っていく事で興味が出て、好きという感情になり、それがさらに知りたいという欲を駆り立て、好意が増し、愛情にいつしか変わるわけですが、聖書を読むというのはこのプロセスの始まりです。
まずは神という存在を認識すると、知りたい気持ちが高まるというきっかけになります。その後どのように変化していくかは神と主次第です。
私が言えることは、人間を愛するのとは違い、神の愛は完全なものなので、人間同士の愛情関係よりも確かなものであり、揺るぎない愛情を得ます。
私が考える神というのは人間が考えるような知性ではないし人間が考えるような奇跡で喜ばせるわけではないと思っています
イエスキリストの最期は十字架に貼り付けになりましたよね
疑問の声が響いた記述が記憶にあります
聖書を読めば信仰心を持ちやすくなる信仰心を持てば死にやすくなる
そういうことでしょうか?
私たち人間が無意識に犯している罪、それは妬みであったり、嘘や保身であったり、好色の目で異性を見たり、神様からすればそれは許されない罪でありました。
しかし、イエスキリストが、私たちが今犯している罪やこれから犯すであろう罪を私たちの代わりに十字架の上の死によって償われた。
これが十字架にかけられた意味です。
ですから、私たちの罪は赦され、イエスキリストを信じるものは天国に行けると約束されたのです。
キリスト教の信仰を持つ人は他者の間違いを赦し、その罪のために祈る事ができます。
そして聖書には、信仰と希望と愛の中で最も大切なのは愛だと示しています。
キリストが私たちの罪を背負ったように、私たちも罪ある人の為に祈る存在でいたいと感じています。
私はクリスチャンでありながら、ある問題を抱えて、風俗で働く事になりました。
夫があるのにもです。
その時、神様に、もうキリスト教を離れます。赦されないと知っています。
どうか私の事は放っておいてください。と祈りました。
その後夫に見放され、数年後出会った弁護士がクリスチャンでした。
神は私に覚えているよ、忘れてはいない。どんなにあなたが離れようと側にいるよと彼を送って下さったのです。
そして、その彼も私の罪を受け入れ結婚しました。
小さな事ですが、これが神の起こす奇跡だと思います。
他の回答者の方のように、上手にお答えできませんが、こんな者もおります。
昔子供に話して聞かせた事があります。
イエス様が産まれる前は、神様はとても厳しい方で、ソドムとゴモラやバベルの塔やノアの方舟など(ネットで調べてみてくださいね。)
罪を犯す人にはそれなりの裁きがあったんです。
でも、イエス様が、私が代わりにみんなの罪を身代わりになって償うので、裁かないでください。
十字架にかかる代わりに。
ですから、本来なら神の怒りに触れるような罪を犯していても、私たちは今日生きています。
たとえ、この世で殺人やそれに近い罪を犯したとしても、この世では法的に裁きにあいますが、神の前ではイエスキリストを信じ罪を懺悔すれば
通りすがりさん24 さん
混同してませんよ
説明してませんがね
要は年齢層も均一の状態を保持すれば年金制度も安定するんです
幸い高齢者の資産は多いのが現状なので
そういうところから調整するのが本来政府の役割です
人間が考えるような奇跡に限るわけではありません。
神は祈りに答えてくれることを約束してくれていますが、その祈りと望みが私たちの望むものであったり望むタイミングではない事が多々あります。
なぜなら神は全知全能なため、私たちの限られた視野でしか見れないことを全て見越して判断をするからです。
私たちは時として人間であるが故に自身にとって悪影響であるものを欲しがり願うことがありますが、それに対しての祈りが神に届いても神は与えてくれるはずはありません。しかし違う形で違うもの、実際私たちに必要であり助ける物を代わりにくれます。
それが奇跡と言われる物です。
聖書の中で、キリストを慕ってついて行った群衆がいましたが、彼らがお腹を空かせた時、その人間たちの空腹を満たすためにキリストは奇跡を起こします。たったわずかな魚とパンとを全ての人間に配るために増やして皆の空腹を満たすわけですが、誰もそれをできるとは思わず、よって要求する者もいませんでした。それでもキリストはその者たちに必要な奇跡を起こしたわけです。
聖書を読めば信仰心を持ちやすくなるというのは、前のレスで書いた通りの理由からです。神を知り、なにを私達に与えて望むのかを知る事で神という存在について学ぶ事ができます。その始まりが聖書という事です。
信仰を持つと死にやすくなる、という事はありません。
誰がどのように死ぬかは神のみが知っています。しかし神が与えた年月を全ての人間が全うできるわけでもありません。自分の言動によりそれらは少なからず変動するので結果的に予定よりも早く死を迎える事は多々あります。
信仰心を持つと極端に死を恐れる事はなくなります。神を信じている事と、神が自分に望む行動に対しての神の約束、それらに対する信頼です。
ー続く
ー続き
ここからは少し宗教の話が強くなりますが、必要と感じたので書きます。
もう一つ大事なのは、キリストは私達の罪の浄化のために十字架にかけられたのですが、その行いによって私達が裁かれる事がなくなったわけではありません。
キリストの死によって今まで人間に閉ざされていた天国の扉が開かれたというのが事実であり、原罪という生まれながらの罪が浄化される方法(洗礼)を得たのが本当です。
わずかな罪でも汚れている魂は天国に入る事はできません。煉獄(れんごく)という場所で自分自身が犯した罪を償わなければならないのですが、大罪を犯した者は洗礼を受けていても口でいくら神を信じていると言っていても魂がその状態で死を迎えたら、地獄へ行きます。
神は大罪を犯した人間にも更生の方法を教えていますが、それを自分には必要ないと突っぱねる人間も多いのが事実です。
私たちは罪を完全に清めてからでしか神がいる天国へは入れません。それは神が完全であり、一点の悪もない存在であり天国は神の場所だからです。
この部分が抜けてしまうと、まるで信者のみに都合の良いデタラメな宗教と間違われるために重要な点である事を強調します。
信仰の神髄がなんとなく伝わってきました。
何も恐れない畏敬の念というか、そういうものなのでしょう。
私は計算が働いて命を秤にかけます。
こんなことのために命を無駄遣いできんとか。
命そのものが信仰の対象です。
生かされてることそのものが畏敬なんです。
だから何としても守らなければならないそういう意識は高いです。
それを越える信仰となると無駄に動くことはありません。
自発的ではなくなるではないですか?
先にもお伝えしましたが、その信仰を持つなら私は死ぬと思います。
だからその信仰は私には持てないでしょう
命そのものが信仰の対象とは、自分の命を崇拝しているということでしょうか。
そうであるなら、それほど素晴らしいものが誰の手でなんの意図で齎されたものなのかは無意味なのですか?
生かされているという自覚があるなら誰の意図で、という考えが生まれると思います。世の中にある全てのものは用途があって存在するからです。それが善か悪かは別で。
自発的ではなくなるとは、自分の行動がという意味でしょうか。
その信仰、この場合はカトリックだと思いますが、を持つと死ぬことになるとはどういう意味でしょうか。
そうですねぇ
言葉に起こすとそうなんです
生命そのものか崇拝の対象とななっています
生命の創造主に畏敬の持ってると同じです
なので自発的ではなくなるというのは
もしも生命の創造主以上のものに畏敬を抱いて全てを委ねるなら
自分という存在が消えてしまうという感覚です
自分という存在を感じるほど全てを委ねていないと感じるはずだからなんですが
少し理解しづらいですが、自分の存在を感じられなくなるのを恐れている、と言う事でしょうか。
私にはやや理解できなかった返答だと思いました。
主さんが敬意を示す命が尽きる前に、神を知る時が訪れることを祈ります。
私を導いてくれたように、主さんにマリア様の導きがある事を願っています。
ご意見に感謝します
命を授けたのは創造主です
故に(すべて)命を敬い大切に扱うことが創造主を信仰するのとイコールではないですか
動くほど自意識に働くことになるので応じて神の御意志からは遠のきます
神の御意志のままに生きますみたいなことになっていくほど動く必要はなくなる
そういうことを考慮して申し上げていますが
ご理解いただけそうですか?
前提追記しておきます
(訂正箇所)
動くほど自意識に働くことになるので応じて神の御意志からは遠のきます
神の御意志のままに生きますみたいなことになっていくほど動く必要はなくなる
(訂正後)
神の御意志のまま生きることを目的として命よりも大切に扱うとする場合を前提にすると
動くほど自意識に働くことになるので応じて神の御意志からは遠のきます
神の御意志のままに生きますみたいなことになっていくほど動く必要はなくなる
生命より大切な価値が聖なるものにあるのはわかります
生命より大切な聖なるものが何であるかですよね?
それを愛といっていいのかな
この辺の適切な表現は難しいです
裏切りの愛(絶望)にあって死を選択する
これもあるものと思います
でもそれは死を選択したものよりも死を選択させた愛が罪深い
そういうことになるんではないかと思いますが
信仰にすがって善悪を決めるのもどうかと思う。
神様が許すから大丈夫とか、神様が許さないから駄目じゃなくて、現実を見たらいいのに。
目の前の人が悲しんでいたり不快そうなら謝るなり改善するなりすれば良いだけで何も難しく考えることないんじゃないかな。
全ての命を敬い、大切に扱うというのは理想的ですが、どこで線引きをするかです。
度を越せば、動物は食べてはならないという思想にもなるし、害虫も退治してはならない等。その線引きとルールを全て自分で決めていると誤りや偏りが生じます。
信仰とは全ての創造主である神のルールを教えてもらう、ということにあります。
例えばルールを知らずに当てずっぽうでゲームをしたら、何が楽しいか、どこへ向かうか、なにをするべきかわからないまま遊ぶので目的もわからずにゲームをなんとか進める事しかできません。
ゲームを作った者の意図がわかれば、従うかは自分次第ですが、ルールがわかるので迷うことは少ないです。
ゲームのルールを分からずに進める事は果たして自由なのでしょうか?その答えは現代の状況にあると思います。
自分のなすべき事、生きる意味、存在する意義すら分からずに闇雲に生きている、生きる目的すら失っている、そんな人間が大多数です。
神の意志に沿って生きる、これは神のためにそうしているという意識からくるのしょう。
しかし神は私たちを必要としていません。
神は常に満たされている為、神の意志とそのルールは私たちを愛するが故の、私達の幸福を願うためのものであります。
そこからはみ出す事は自由意志を与えてくれたのでいつでも可能ですが、それは自分のことを誰よりも愛し、心から自分の幸せを願う親以上の完全な存在に歯向かうのと同じです。
絶望にあって死を選択するのは愛ではありません。歪んだ依存です。
愛とは相手の幸せのために自分が尽くすということなので、絶望を知ってそれに耐えずに自死を選択することは愛とは全く相反する行いです。絶望というもの自体が神を信じる行為と相反します。神を信じ、全てを託すなら絶望する理由などないからです。
1さんすごいなぁ。
宗教をなぜ信じている人がいるのか理解できた気がします。私には私以外の何かにそこまで委ねることは少し怖いから宗教はやっぱりできないけれど、素敵な教えだなぁと1さんの返答すべて読んでしまいました。
38さんはスレ主でしょうか。
素敵な教えと思えたなら幸いです。
人から見たら宗教と一括りにされると思いますが、これらは全てカトリックだけの教えです。プロテスタント(クリスチャン)とも異なります。
カトリックの神は愛を説き、教える神です。善と悪には明白な境界線があり、ユダヤ教から唯一継承されてきた神が作ったただ一つの教会でもあります。
信じられない、そうだと思います。
信仰心は全ての人間に芽生えるものではありません。
この先もし何かで立ち止まる事があって、孤独を感じることや、絶望などの気落ちに貶められた時が来たなら、その時でもあなたを愛する偉大な存在がいる事を思い出して欲しいです。
神の導きがありますように。
先の方のように詳しくなく素人考えで言わせてもらいますね。
キリスト教は愛、仏教は慈悲を解くと聞いたことがあります。
仏教においては因果応報を解いていて、何事も結局は自分がまいた種の刈り取りなので
相手ではなく自分に原因があるというものです。
そして慈悲は争いをしずめるとも。
でもかの有名な弘法大師空海でさえもお釈迦様の究極の教えは難しく読解することができなかったそうです。
出家して悟りをひらいたとしても、
人間一生が修行なんじゃないでしょうか。
分かんないけど、許せる時も許せない時もそれ全てが人の感情であって、今まで受けてきた教育も含めて皆それが軸になってから経験によって様々な答えやプロセスに至る。今日優しかった人が明日には鬼になる事もあるからね。
回答になってないですよね。すみません。
何を言ってるのかよく分かりませんが、別に殺人も「世の中には存在する出来事」だと思ってますよ。
それについて否定も肯定もないです。
昔は死ってもっと身近だったのだろうし、いまだって本当は毎日生き物の死んだやつを食べてるんだし。
草刈りしても、道歩いて虫踏んでも、なにかを殺してはいる訳です。
なぜか殺「人」になると、急にめちゃくちゃ悪いこと、みたいに言われるのが逆に不思議です。
仏教の教えは無です。全ての欲望(煩悩)を捨て、無になることにより初めて幸福になれるという教えです。
そこには生命の尊重などは特にありません。
キリストの教えは愛であり、慈悲は愛と同一です。愛なしで慈悲はなく、慈悲がない愛もありません。
38ですがスレ主ではないです。
でもずっとやり取り読んでてすごいなって気持ち書きたくて投稿してみました。
1さんはカトリックなんですね。ひとくくりにしてしまってすみません。1さんも今日がいい日でありますように♪
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