私たちは清らかな存在になることを目的として生きているのは絶対法則だと考えています…

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2022/10/11 09:33(更新日時)

私たちは清らかな存在になることを目的として生きているのは絶対法則だと考えています
その段階で理解できず躓く人がいて
次の段階で理解できても躓きます
清らかな存在になるために合理的な方法は、たとえば先祖供養だとか参拝だとかになるのだと思っているのですが
他には、どんな方法があると考えられますか
まず全体では清らかな存在になることを目的としていないので、あまり合理的な手段は多くない気がしています

22/10/06 13:43 追記
犬も歩けば苦にあたる
自ら苦へ向かうか
苦からやってくるか
ではありませんか?

22/10/06 13:49 追記

関連するか?

ほどけば清らかなる精神になりませんか
苦がないと負の感情がない
負の感情が穢れであるので
負の感情がないは穢れていない
苦に対して負の感情を持たない
それが清らかなる状態でしょうか?
清らかなるは難しい世界だと実感しています
合理的に目指すべきではないですか?

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No.3645887 (悩み投稿日時)

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No.1

「私たち」とは何方たち?

No.2

>> 1 全員です

No.3

その絶対的法則が「みんな」に当てはまるという考え方に疑問を抱きます。
人の価値観はそれぞれ。
急激な変革を求める人達もいれば、安定のみを求める人達もいます。
何が正解・不正解かも、一部の人達で決めるものでもありませんし。

形式張った供養や、特定の宗教に固執した参拝を好まない人達はどうですか?
それは絶対的法則から外れる人間なのでしょうか?
悪と考えるのでしょうか?

No.4

マザーテレサのように、人のために奉仕することだと思います。

No.5

瞑想、ヨガ、掃除、水業

No.6

>> 3 その絶対的法則が「みんな」に当てはまるという考え方に疑問を抱きます。 人の価値観はそれぞれ。 急激な変革を求める人達もいれば、安定のみを… なるほどです
参考にさせていただけます
参拝をしないと駄目というのではなく
清らかなることを目指すならば
本来の目的とは異なるとしましてもですね
参拝や先祖供養という謙虚な姿勢から求める
それは合理的とおもえているということです
そしてそれが真実であるには違いない確証を得て意見をしています

No.7

>> 4 マザーテレサのように、人のために奉仕することだと思います。 そのための意識づくりは、どうしますと合理的でしょうか?

No.8

>> 5 瞑想、ヨガ、掃除、水業 なんとなくわかります

No.9

もう少し伝えられそうな気がしてならないため昇華できません

No.10

すべての人は表面的な楽で解決すると物事を考え、苦しみ嘆きの道を歩んでいる

そんなことないですか?

No.11

INGではなくて経験させられる世界をつくってる

だったらよかったかな?

No.12

「苦い経験をしてないからダメだな」と
苦い経験をして、悪くなる人と良くなる人といる
なのに良くなる人へ向けた意見しかない
悪くなる人は、もっと苦い経験をして果てなく悪くなると良くなるしかない
そこまで悪くなれという
現実は、それに近いのかなぁ
という感じがする
ていうか苦い経験をして悪くなれって感覚のほうが近い
悪はいいぞみたいな感じだよね

No.13

密かにそう思ってる人達も口を閉ざすんだよ
いってみれば裸の王様にさせるみたいなことかな

No.14

清らかなのは素晴らしいと思います。
でもそれを目的として生きている人は
それほど多いとは思いません。

私は適当に自分本位でずるさも持ち合わせています。
でも善人だとは思います。
清らかなのは素晴らしい。
でも清らかであることを人に求めれば
清らかなりえない。

ただただ清らかに生きるには
世の中は複雑で人との関わりは難しい。

No.15

頭で考えるより、実践あるのみだと思います。
その中で気づきを得ていくしかないかと。

No.16

>> 14 清らかなのは素晴らしいと思います。 でもそれを目的として生きている人は それほど多いとは思いません。 私は適当に自分本位でずるさも… 皆に清らかを求めるのは私だけではなくあなた様でもあり、自身であり、すべて存在するものの宿命であり真理現象です

No.17

>> 15 頭で考えるより、実践あるのみだと思います。 その中で気づきを得ていくしかないかと。 愚者は経験に学び
賢者は歴史から学ぶ
といいますけど?から?ね

No.18

それは悪いことを回避するための教訓。

どんな理論を持っていたとしても、何も行動しなければ意味が無い。

仕事でもボランティアでもいいので、人のために奉仕してください。

その中で、いろいろな経験を積みながら気づいていって霊性を向上させていくのです。

No.19

>> 18 では例えば
托鉢
あれは
あなた様の考える
奉仕になるのだろうか

No.20

人間は醜く、嘘をつき。
自分のことばかり考え。

他人に勝って自分が優位になることばかり考え、争い、殺し合いまでする。

人間の中身は糞尿
血、肉、骨、内蔵。

それが真実。
清らかな存在など、程遠く。

なれるはずもない。

No.21

>> 20 なれるなれないなりたいなりたくないではなく、行く行くは自ずと清き人になるようになっているんだという話なんです

No.22

そういえば数年くらい前だったか、一時期托鉢をする偽行者が話題になりましたね
やってることは同じなのに、なんであんなに批難されたのかなといま思います
行政上で届け出がなかったりという問題があるのはわかるけど
なんていうか托鉢だけで生計を立てるのは、不謹慎な精神があろうとなかろうと行為そのものが修行にもなるわけで問題ないような気もしてくるんだよね

No.23

まぁ分からなくはないです。

>他には、どんな方法があると考えられますか

逆説的ですが「清らかじゃない自分も許すこと」じゃないですかね。

  • << 25 逆説ていいますか 清らかになる目的なので 論理的にありえません ということです
  • << 26 けど人って、そういうレトリックに陥りやすいんですよね そういうご縁かな  ?

No.25

>> 23 まぁ分からなくはないです。 >他には、どんな方法があると考えられますか 逆説的ですが「清らかじゃない自分も許すこと」じゃないです… 逆説ていいますか
清らかになる目的なので
論理的にありえません
ということです

No.26

>> 23 まぁ分からなくはないです。 >他には、どんな方法があると考えられますか 逆説的ですが「清らかじゃない自分も許すこと」じゃないです… けど人って、そういうレトリックに陥りやすいんですよね
そういうご縁かな  ?

No.27

邪念ない自然体であれば、すべての行動に無理無駄はなくなる
考察レベルは、そこまで引き上げる必要にあるはず

No.28

>清らかになる目的なので
>論理的にありえません

なるほど、目的として定めて意図して努力しないと清らかにならない、という認識なんですね。

No.29

>> 28 清らかであれば自ずと自分を許せるようになるとの認識です
自ずと許せない自分を無理に許せば穢れるわけです

No.30

たまたま開いた相談だけど言葉の定義が曖昧過ぎて意味がわからないです。

1:「清らかな存在」とは具体的にどのような状態を指すのか?
  そしてその状態は明確に自覚出来たり他者から見て判別できるのか?

2:「清らかな存在」になるには先祖供養や参拝が有効との事ですが、それらの行動と清らかな存在の具体的な因果関係(なぜそうなるのか)

これら二点が知りたいです。

No.31

本当の修行者は、托鉢によって、相手の悪いカルマをも引き取っているそうです。

ですが、単純に考えれば、ただ食べ物、お金を頂戴しているに過ぎないのではないでしょうか。

No.32

>> 30 たまたま開いた相談だけど言葉の定義が曖昧過ぎて意味がわからないです。 1:「清らかな存在」とは具体的にどのような状態を指すのか?  … いい質問ですね

1.これは深いですな。無垢つまり無私という状態であると中立の0点に位置します。そこから検討していくと利他性に「清らかな存在」の定義がは成立するとおもわれます。
しかしながら最終的な聖なるとはなにか?巷で語り合われるように解釈も様々で一様ではなく一般的には言っても意味の通じない状態をいうでしょう。なので、そこは割愛します。何層にも清らかであるとする段階はあるのでしょうがある程度まで大体共通です。そういうものがないと識者とは何か法は何かとなってしまうですよ。現時点現実は真の識者が存在しているはずなのですが、それさえまとまらない段階で生きています。普遍性さえ全体では理解できないのが現段階の人間世界です。まずの清らかな存在の段階としては普遍的価値の理解だと言うのではいかがでしょうか。

2.も考えて書いてみましたが、即席で安易に意見するのは問題と感じたため取り合えず様子見、見直ししてからですね。

No.33

>> 31 本当の修行者は、托鉢によって、相手の悪いカルマをも引き取っているそうです。 ですが、単純に考えれば、ただ食べ物、お金を頂戴しているに過… なんで托鉢行をするのか理解できなければ、そういう話になるんだとおもいますけどね。

No.34

どんな聖人君子も、この世においては食べ物が必要だからですよ。

深い理由がわからなくても、現実そうだからですよ。

あなたは仏陀のように、托鉢で生きていきたいのですか?

No.35

>> 34 なので清らかになる目的で生きていますですね
たべる行為が教材になるんですよ
考え求められる立場ということです
現状の生活では托鉢で生きていきたい理想はあります

No.36

そうですか。
托鉢で生きるのは大変だと思いますが、仏陀と同じ生き方ということで、チャレンジしてみる価値はあるかもしれません。

悟りを目指して頑張ってください!

No.37

僕はもうすっかり清らかです。頑張ってね

No.38

>> 36 そうですか。 托鉢で生きるのは大変だと思いますが、仏陀と同じ生き方ということで、チャレンジしてみる価値はあるかもしれません。 悟りを… 現実と理想は違います
思い通りにならないのが現実ですから
目指す目指さないも
厳密には自分で決められないような気がしています

No.39

>> 37 僕はもうすっかり清らかです。頑張ってね そうなんですか
フフフ
求めるとかでもないんですよね
自然です

No.40

三次元の考え方ですね

No.41

>> 40 そうです当然三次元の考え方ですけど
みんな三次元も理解していないでしょ
たとえば仏教でいえば千日回峰行や即身仏みたいな厳しい行が
何であってなぜそれをするかとか知らないようなことです
まったくもって知らず知恵がない
それが三次元
孤独が悲しかったり辛かったりするのも
知らず全体や互いの理解がないから
片側でもダメなんですよね
双方の理解がないから悲願になるんではないかな

No.42

人は生まれながらにして穢れた地に生を受けた
だから苦しむことによって清き存在になる目的を明らかにする
そんなことが人類史では繰り返し続けているのでしょう
この仕組みだと清き存在になるために苦しまないとならない
こういう世界に生きています
それは自業自得自因自果による生かされているではなく生きているニュアンスです

穢れた地に生を受けたとしても清き存在になる目的を知り利他の理解を先に得れば目的や指針は転換するはず
苦しまずに向かい大義をもって常に清々しく様々な人生を学べる姿勢や環境がつくれる
無駄に苦しむ必要はない
無知無垢に近い赤ん坊の状態から態々穢れた指針に誘導されて穢れる
人が創り出した三次元は、そんな苦のスパイラルです
体験する必要がなくなっていくのです
そのようにあってほしいと強く願っています

人が苦しまないための指針と人生に力を貸してください

No.43

快楽に浸り喜び悦を感じていても続かないんです
続きません
必ず功罪を知り考えないとならなくなります
それが真実で真理です
知らないだけ

No.44

修行においては取り組みが中途半端な人間ほど理想が高く、自分を棚に上げては周りに真理を説きたがるものです。覚えておいて下さい。他人の在り方が気になってるうちは修行の入り口で止まっている状態です。本当に覚悟を決めた瞬間に他人は眼中に入らなくなり口数は極端に減ります。当然スマホを見ることすら無くなります。今のあなた自身をよく見つめて下さい。

No.45

>> 44 あなた自身がそうではないですか
最後に呆れて諦めて終わりなんだと思います
仏陀は真理を問ことしなかった
気が向かなくなっていたんですよ
身をもって知るしかないと判断された
そういうことだと思います

No.46

現時点であなたが全く真理を体験しようという覚悟ができていないことは明らかです。

No.47

仏の道は知識ではありません
すべて体験です

No.48

>> 47 そういうことを考慮して45のように至ったわけでしょう
教えを説く気力をなくされたんですよ
仏陀は

No.49

確かに現実を考えるとそうですね。

まぁ、普通に働く場合でも、そこからいろいろ学べますからね。

No.50

>> 49 そうですよ真実と真理は揺るぎません
いろんな方の意見もある程度まで同じなんです
最後のところで現実主義的か理想主義的か分かれていくように感じられます
なにをやっても清らかになること
時差こそあるものの、そこへ行きつくようになっています
初めから、それを追求するほうが合理的で効率的で幸福であるのは間違いありません
学の方向性が違うんですよ
なんていいますか人生を学ぶアプローチは科学や物理と違います

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