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貧困家庭ほど虐待や非行の率が高いと言いますが、同じ貧困世帯でも愛情の深さは様々で…
貧困家庭ほど虐待や非行の率が高いと言いますが、同じ貧困世帯でも愛情の深さは様々で、あまり関係ない気がします。
私の実家は貧乏でしたが、記憶の中で両親は出来る限り私の希望を叶えてくれました。
「お菓子食べたい」と言ったら「んなもんあるかいw」と言いながらフナヤキ(小麦粉と砂糖を水で練って焼く)を作ってくれたり、ごはんをペチャンコに焼いてお煎餅みたいにしてくれたり。
動物園に行きたいと言えば「お金ないんだよw」と言ってホームセンターのペットコーナーに連れて行ってくれました。
絵本がなくても寝る前に日本昔話や童話をアドリブで聞かせてくれて、「あんたらパパとママの宝物やで」と言ってくれました。
非行どころかぽわーんと暢気に育ちました…
良ければ皆様の「貧乏暮らしの中でも愛されていたと感じたエピソード」も聞きたいです。
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うちも貧乏でした。
誕生日に好きなキャラクターのぬいぐるみを作ってくれたことがあったんですが、縫い目から必死度が伝わってきました笑、でも実際かなりの出来映えでした。
当時はバブル期だったのにうちは本当に貧乏でした。
だけど誕生日ケーキとプレゼントは必ず毎年用意してくれました。
うちの両親はとても仲がよかったのですが親父が稼ぎが余り良くなく母が内職をして食い繋ぐ日々だったのは覚えてます
当時、昭和の50年代自分は小学生で人並みに贅沢で生意気な注文もしてたのも覚えてます、ステーキや鰻が食べたいと言えば毎回じゃなくとも用意し食べさせてくれ当の親はご飯にタレだけかけて美味しいね、と言って一緒に食べた記憶が今だに忘れられない。
ファミレスで500円までのメニューを頼んでいいよー、と言われて、
兄弟2人で楽しみながら選びました。
いつも父親と外食しました。
母親は節約のために?小さな妹と留守番してくれていたのを覚えています。
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