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やや哲学的な話ですが、苦しみ悩み多いとき、あるのは学びではないのでしょうか?思考…
やや哲学的な話ですが、苦しみ悩み多いとき、あるのは学びではないのでしょうか?思考です。
包まれるような優しさや癒しではないだろうと考えています。
でも求めるのは包まれるような優しさだったり癒しだったりでしょう。
それは愛とか信とか期待とかを知っていたり持っていたりするからではないでしょうか?
そうした善いものを決して手放すことなく、大いに悩み考える覚悟をもって事に当たるという逆説的な対処も検討してみては如何なものなのでしょうか?
それによって回復した経験はあります。
本当に包まれるような優しさ癒しを必要としているのは、誰なのか?
どうやって特定することが出来るか?など意味の通じる方がおりましたら、ご意見をお待ちしております。
m(__)m
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自殺容認派ということですか?
容認も否認もない。私は逃げるよりできることを探す。それだけのことです。人は知らない。
しょせん表面上の綺麗事で寄り添い慰める偽善や自己満足をしたところで相手の辛さの度合いなどわかるはずがない。
だから事が起きたときに進むか否かを決めるのは個々なだけ。わかりもしない他人の心を予測してる暇など私にはありません。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません。求めているものが優しさであろうと癒しであろうと、貴方が今悩みたいという気持ちの中にあり、何らかの形で内なる善を果たしたいという気持ちに嘘はないかもしれません。
それが答えです。悩みなんてそもそもどこにもないのです。悩みたいという気持ちに対して、悩みがあるのではなく、優しさや癒しの道具としての悩みに悩む。求めているのは言葉でも理屈でもなく、何も悪くないよ。いてもいいよという承認の言葉なのです。だから、哲学的な答えがそこにあるのではなく、ただ単純に愛されたいと素直に言えない事が悩みの根底が質問者さんにあるのです。
代弁者ですか?その発想がいけないとは申しませんが、もう少しだけ自分の言葉を大切にして欲しい気もします。哲学的な気持ちになるのも悪い事ではありませんが、優しくされたいとか癒されたいとか素直に口にするのは本来悪い事ではありません。けれども、そんな言葉は言えないと感じる場合は質問者さんなりの考え方で愛するという行為と行動を考えてみる事が好ましい事のように思います。理論武装が悪いとは申しません。けれども、自分はただ愛されたいのだと自覚する事も大切ですよ。学びとは愛すると書いて学ぶ読ませる要素もあるのだと思います。頭で考えるなとは申しませんが、悩みが愛であるというよりも、悩む事も愛なのです。意味不明な考えに思うかもませんが、頭で考えて愛も癒しも優しさも善き考えを理解しようと思う。悪いとは言い切れませんが、素直に愛されたいと思う気持ちに従いながら、素直に愛を表現する。代弁するというよりも、素直に全部白状するつもりで、愛とは何なのか?癒しとは?優しさとは?素直にそれを欲しいと思う心とは?疑問に思う事は絶えないかもしれませんが、私はただ愛すると決めてしまうだけで十分な時もあるのです。知ったような事を言わせて下さい。貴方にも愛される理由がある事を知って欲しいのです。
決め付けでも偏りでも構いませんが、なぜそういう印象になるのだろう?そのような疑問は一回持って欲しいですね。偏りという印象を受けるならそれでも構いませんが、都合のいい話は聞くが、都合の悪い話は聞かないになってしまってないか考え直してみて欲しいです。この世界に無意味な批判はあまりないのと同じように人から言われる事には多くの場合、意味がある。そのような感覚で色んな事実を見返して欲しいです。変な話、下る話と下らない話の決め付け方が早過ぎませんか?思い当たる節がないのであれば重症かもしれません。とは言え言われる事には意味があるの原点から、あらゆる事実を観察しながら、この人が言う事と自分が思う事の相違点は何なのか、着目する事の大切さをお伝えします。何でも素直に聞くという事ではありませんが、釈然としない意見ほど有用な意見かもしれないという想像力と謙虚な気持ちが大切です。AかBかというよりも、Cが提示された時の反応があまりにも悪過ぎるのが気になりました。けれども、てきとうに合わせればいい訳でもないので、貴方の本音と正直過ぎる一面に感謝する事にします。
ちょっとその問いかけそのものがわかりにくいので、求められている答えがどういう事かはよく分かりませんが、その答えは本当に必要かは考える必要はあるかもしれません。なぜなら質問者さんが求めている答えは哲学的な問いの答えというよりも、答えはないものに答えを求めている気がするのです。言ってみれば人が幸せになる最善の方法は何だと思いますか?のような、それでも答えを求めてはいけないという事ではありませんが、無駄という事ではありませんが、それで質問者さんはどうするのですか?という疑問を抱きたい印象を受けるのですが、答えになっていないかもしれないませんが、その問いに答えはなく、貴方が愛するか愛さないかだけでの話だと思ってしまう部分があるのです。
国語的によく分からない点があるので答え辛いですが、個人的には愛とは与えるものであり、見返りを求めないものだと思います。けれども、誰もが愛されたいと思いますよね?それが本音だし、正直な気持ちです。だから、人は優しくされたいし、癒されたいとも思います。けれども、それは弱さでもあり、愚かさでもありますが、それ以上に人に寄り掛かりたいという依存の気持ちになりうるのです。けれども、人はいつもいつも強くはいられません。優しさが必要な時も、優しさがなければ生きて行けない事もあります。それなのにも関わらず、人は頭で考えて優しさは入らないという態度を取ったからといって、 苦しみや辛さから逃れられるでしょうか?確かに学びがあれば人に甘える事なく、頼る事なく、人に依存する事も少なく出来るかもしれません。けれども、人はそんなに強く生きて行けるでしょうか?何の支えもなく、人は生きてゆけるでしょうか?ずるい言い方かもしれませんが、人は優しさや癒しを極力を求めない形で、人に優しさと癒しを与えられる人になる事が望ましいのです。これは思考の産物で理解するというよりも、人間の本質的な愛によって理解出来る知なのです。だから、優しさや癒しを求めざる負えない人間の弱さを知で理解しようとしてもあまり意味がないというよりも、本質的にそれを理解しなくては意味がないという話なのです。
私は主さんのおっしゃっている事を理解したいと思うのですが、イマイチ主さんの本質的に言わんとしている事が良く解らなくて頭を捻っています。
愛にしても癒しにしても、必要のあるないに関わらず、誰の心にも潜在的に求めて存在するもので、無償で与えたり与えられたりする事の出来る感覚ではないかなと思います。
今私は死ぬ程の苦難にありますが、色々と深く掘り下げて考えていると、少し気が紛れてくるようです。
話は逸れてしまいますが、傷んだ心とゆうものはどうやっても完全には癒されないでしょうけど、何も解決されないまま死に行く気がして悲しくなります。
この返信の意味はよく分からないので悩ましいですが、しなくてはならないというよりも、ままならないこの世の中ではそう出来るところと出来ないところがあるように思います。理解による解決は素晴らしいですが、理解がままならない場合や場面の方が多いのが実情で、理解による解決を図れる場合とそうでない場合があるように思います。話が噛み合っていないかもしれませんが、理解に頼るというよりも、理解をより深い理解にするその過程の中で、色々な苦しみや辛さが生まれるのではないでしょうか?知になる、知が実る事は素晴らしいですが、多くの場合対処という知を持ちきれないまま、傷付く或いは苦しむというのが一般的で、理解ではその状況ごとに対処しきれない場合も多いのではないでしょうか?話が噛み合ってるかどうかはよく分かりませんが、知とは万能であるというよりは覚束無いからこそ、人は知を求め続けるのではないでしょうか?
質問者さんと私とでは理解という概念に対する認識の違いが東と西ぐらい違うかもしれないので話が噛み合うかどうかは疑問ですが、人は基本的に愚者である事が一般的な態度で、知が覚束無いまま救われていないという状況が基本的な現実としては一般的なのだと思います。その中で知とは失敗であったり誤りであったりする中で学ぶもので先回りして知で解決するというのは難しい事であるように思います。理解によって救われる事もそれはあるんでしょうが、基本的な人々の優しさだったり思いやりで人は救われるのだろうと思います。例えばやらなきゃいけない事が分かっていてもやれる場合とやれない場合がありますよね?それと同じで知は知で大事なのだけど、本質的な救いになるかどうかは別問題で、人は多くの場合、至らなさの中で対処するしかないというのが多くの場合の現実論なんだと思います。だからといって、甘えていいとは言えないかもしれませんが、人は誰しもが万能知がないのが当たり前で、愚か者同士が足りない知恵を出し合って解決に当たるのが一般的なんだろうと思います。
- << 77 結果論として、ボクたちは口を閉ざすことになる可能性は高い。 それは歴史が証明してきました。
そりゃ越えられない壁も時にはありますよ。越えられない壁がないなら、犯罪も事故も災害も人の脅威にはなりませんよ。越えられない壁もある事も学びなら、越えられないように見える壁も越えられる事がある事を知る事も学びなんじゃないですか?辛い事ですが、知では限界があるというよりは何の慰めにもならない現実もあるという事でしょうか?答えにはなっていないかもしれませんが、知は知であるけれども、途方もない現実や事実の前では無力になる事さえある。だからって、何も学ばない訳にはいきませんが、知の限界も優しさや癒しの限界を知った上で、その時々の苦しみの中で人は人に何をしてあげられるのか?試されるのが人間なんじゃないですかね?
意味の繋ぎ目が分かりにくいのでちゃんと伝わるかは分かりませんが、簡単に言えば何かが出来るなら、何かをすればいいし、何かを理解する事が出来るなら、それはよくも悪くも学びだと言えるのかもしれませんが、圧倒的な現実の前では、何も出来ない。何も分からないというのが事実として一般的なのではないでしょうか?無論、それらを含めて学べたという言い方も出来るのでしょうが、結論として何も出来ない、何も分からない状況は生まれうると思います。けれども、それは何も学べなかったというよりはそのような現実を学んだという言い方も出来るのだと思います。例えば自分は東大には入れない。これも学びといえば学びですよね?学びと一言で言っても、学ぶ側の知性と知識の問題もありますが、人間的な理解の問題でもありうる。納得する事は出来ないかもしれませんが、知には人間的な理解の知と社会的な理解の知、教育的な理解の知があって人間は様々な角度で様々な愛を学ぶだけれど、その中に優しさや癒しなども含まれる中で知とは我々が思う知だけでなく、例えば警察から逃げる方法なども知といえば知などだと思いますが、その中にあって必要な不必要な知もあって上手く言えませんが、学びとは学びの事というよりも、学びに繋がった愛の事であり、愛という形で学んだ経験の事でもあるのでしょう。愛とは学びの事であり、学び切れなかった、或いは何も出来なかった経験も含めて学びなのでしょう。だから、学びとは知識や知性の事でもありますが、苦すぎた苦しみの事でもあり、苦しみが学びとは理解する事は難しいかもしれないけれども、対処する事が出来る事も対処出来なかった事も学びなのでしょう。学びとは学びを得た事というよりも、学びになってしまった事でもあるのかもしれません。それが質問者さんの問いの答えになっているかはどうかは分かりませんが、無力を知るという現実も含めて学びなんだと思います。
最初に申し上げます。スレ主なのですがクッキー削除したために、スレ主としてログインできなくなりました。ニックネームかわりますが、引き続きよろしくお願い致します。_(._.)_
なるほど。そのように思います。
わかりやすくいうと”あるがままに生きる””いまを生きる”のような観点ですよね?
そうした理解へ必ず誰もが辿れるわけではないから、道筋を築かないといけないのではないでしょうか?
このように書くと「偉そうなこと言うな。お前に何がわかるのだ」と叱責を受けそうな状況ですが、生意気にも、そのように思います。
主さんのような哲学的な観点からのみであれば、私とは相違があり解りにくいかもしれませんが、死ぬ程の深い心の傷というものは、全てが癒されないものもあるのです。
苦しみから脱却する事を諦めるも何も、解決しようの無い事だって世の中には沢山ありますよ。
口で言うのは簡単かもしれませんが、現実問題は理論だけではやっていけなくて甘くないです。
苦しみや悲しみを味わった分だけ自分と向き合い学びになり、心が強く優しくなれるということもあるかもしれませんが、千差万別だと思います。
思念次第ということは、どうしてもあるかと思えました。
自分自身が、どうありたいかという意識だけは、誰の介入も許さず自分という存在を貫くことが可能です。
美しく生きられれば気持ちよくて、醜く生きれば最低の気分になるものではありませんか。
この意見に対しては、いかがと考えていられますか?
ありゃ?
ちょっと覗いてみたんだけど…
もう語り尽くしちゃった感じ?
86の主さんの問いは
理想論だけど、
残念な事に、人間の心は一定じゃなくて
不確かだよ。
例えば、今、その思想を持ってても
この先ずっと同じ思想である保証は無い
と言う事。
主さん今何か楽しい事ありますか?
3さん、おはようございます。そうですね。
なにより美しく生きるということ自体が掴めきれてない。
それは動くしかないかもしれませんですね。
それを掴もうという意志さえも固定できないという意味もありますか?
まぁ、こういうものは不可能とおもえば、その時点で不可能と思いますけど。
55ですが、すみません気が付かなくて。さすがに何が何だかという感じでよく分からなくなってきましたが、今の段階で私が言える事があるとするならばそれは道筋というよりも、結果論的に知とは失敗の知も成功の知もあるんだろうと思います。スレ主さんの疑問や難問が今、どこにあるのか私には分かりにくいですが、確かな事が一つあるとすれば救いとは必ずしも救われた事実と一体とは限らず、悲劇的な結末の中にも救いがある場合とない場合があるのでしょう。理解しがたい事実に思われるかもしれませんが、救いとは救いの事というより、救おうとする神もしくは人のはかりごとといえばはかりごとなのかもしれません。そのような事実がある中で優しさや癒しは優しさや癒しというより、優しさや癒しに繋がるかもしれない何かなのかもしれません。優しさや癒しとは常に結果論で本当に大切な事は優しさを与えよう、癒しを与えようとする人の心なのかもしれません。
92さんに思うところがあれば、色々とご指導いただけたら幸いと思います。
僕はスレ主ですが、回答者の方としては質問の意図はどこにあるかに関心があるような気がしてなりません。
それで当初の質問内容とは大分話がかわってきているような気がしています。
苦しみから解放されるために愛や癒しを必要するのは、どんな時なのか?と
苦しみから解放されるために考察する事を必要とするのは、どんな時なのか?
について仏教哲学的観点から、是非ご意見を伺えないでしょうか。
よろしくおねがいします。
82さん、たいへん失礼しました。
素晴らしい本を推奨していただき、ありがとうございます。
幾ら頭に言葉が入っても改められないのが人類だよというメッセージだったでしょうか。
そうは仰らない気はしますが、そういう風に考えさせられます。
この事実からも人類の歩み続ける道には、依存症同様の病気に近いものがある。
きっと、そうです。
ご縁とか運命めいたものとどのような関わりがあるのかは私にも分かりかねますが、結果的に言える事実として人の優しさも癒しも運命の渦中にあって、そのような愛の元素の在り方を問われる瞬間があるという言い方は何かしら出来ると少なからず言えるかもしれません。
愛の元素の在り方ですか?これは高度な難しい言葉ですね。
「ありのまま」ということではないですか?
「ありのまま」の表現解釈も難しいです。
簡単な言葉なのに、むずかしい。
それは何か?というと、己自身にある偏見や呪縛先入観みたいなものがあるからでしょう。
それは”愛の元素”ではなく、”愛の元素”から生じた何かといことになるものですか?
全然違っていたら、すみません。(^^;
ややこしい話になってますか?
質問者さんがいう“ありのまま”とは何を指しているのか?私にはよく分かりませんが、個人的にはありのままというより、ある一定の状況下で生まれる愛を愛Aと呼ぶとするならば、愛Aとは必要な愛とも必要な知や理解とも言えるのでしょうが、愛の元素という形で存在する愛の元素とは愛の元素というよりも、もはや愛そのものに近い事実だと思うのですが、その中でも愛とは愛の元素中の元素というより、愛の元素そのものというしかないような愛の元素だと思うのですが、愛とは優しさだったり癒しだったりも含むのですが、愛の知であったり愛の理解であったりするような人間的万能薬の事ですが、愛の知は愛の知というよりも、愛に至らない知から生まれると言っても過言ではない愛の知というより、愛に至らない知から生まれる愛の知でありながら、愛と呼ぶには愛という言葉の意味と条件を満たし切れない愛というより、愛に関する重大な無知が本来的な愛を生むとも言えるのだと思います。理屈的に難しいかもしれませんが、愛とは愛というより、愛に関する重大な無知から生まれる奇跡的な光と奇跡的な価値という言い方も可能かもしれません。愛とは理解と理知の達成の事ではなく、愛を持たない愚かな価値と愚かな事実と愚かな現実の超越的克服から生まれる事実という言い方も可能かもしれません。お互い自分のいう事も相手のいう事もよく分からない中で、質問者さんはこの超越的事実の意味を理解出来ますでしょうか?
おもしろいですね。魂的な知性や理性の存在を別の表現に置き換えているのだと思われます。
そういものがあるのか、どうかは分かりません。
先天的な場合もあり、後天的な場合もある。
これではいけませんか?
いずれにしても生きて得ることのできる理性や知性のことと同様ではないのでしょうか?
しかしカルマや業ということの存在なら、その路線は疑っていませんよ。
生存には、なんらかの因果が付随していると考えています。
個人的には無知というより、よき理解を得ない人間の業という形で存在する理解の足りなさや認識の乏しさを知識の無さや認識の低さと解釈するよりも、愛という概念の中にある知識の中の知識のように存在する愛の知識が精神分析論的に存在する決定的な知識の乏しさが愛という概念の重要な知識の中の必要な知識の一部として、精神分析論的に愛の知識を愛の知識の一部として存在する何らかの知識を大小問わずに存在するそれらの知識を愛の知の一部として、何らかの形で理解した上で、愛の知は愛の知として機能させる働きかけが重要に思いますが、それらの意味を簡単にいうのはとても難しいですが、個人的な結論として唯一思う事は愛の知とは愛の知識というよりも、愛を知り足りなさを克服する重要な事実と知性であるような気がします。それを踏まえて、質問者さんの問いに何らかの形で答えるとするならば、魂の学びと見なされる英知の多くは魂レベルの英知というよりも、魂と魂の中にある最深部の魂の英知の中の更に奥にある魂の英知を何らかの形で魂の英知と呼ぶとするならば、人は何らかの形で魂の英知を学ぶ存在でありながら、人間的な英知を学ぶ存在かもしれませんが、人間はそのような現世の中の現世にいる現世中心の存在なのかどうかは私にはあまり理解出来そうにありません。けれども、人は人それぞれの英知を学ぶ課題を克服する使命の中で、人間という名の借り物の存在の中で、あらゆる苦難や苦行や試練を乗り越える存在として人は人であるというよりも、借り物の肉体の中で人でいる事を何らかの形で望む人間というより、人間という名の借り物の生物像の中で存在する人間的な生物と言えるかもしれない自己の存在を認めながら、受け入れながら存在する何らかの存在であり、生き物かもしれない何らかの存在物であり、人間的な生物と言えるかもしれない生物であるように思いますが、その中で人間は自らの生の中で何を学び、何を理解とするかはひとそれぞれが学びの過程で学習し習得する事実なのかもしれません。そのような答えではまるで理解するのは容易ではないかもしれませんが、個人的には生きる過程の中で理解する知というよりも、死んでからでも通用するような知と考えれば何らかの形で理解出来るように思います。
難解過ぎて笑ってしまいました。(笑) 実に読みにくいです。
愛の知が理解できなければ意味が通じませんからね。
55さんは「愛とは何か?」と訊かれて何と答えられますか?
その次の話ですね。愛の知については。
お待ちしています。
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