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日航航空機墜落事故
21歳にして初めて、きちんと日航航空機墜落事故についてネットや関連書籍で勉強しました。(授業とかではなく個人的に調べたことなので至らない点、誤認識している部分もあるかもしれません。)
そこで事故当時、生まれていたであるかもしれない皆様、ならびに私よりも先に既に事故についてお調べになった方々な伺いたいのですが、
事故当時、またその直後ニュースではどのような報道をしていたのでしょうか。
また、この事故を知った方々、この事故について事故から今までの一連の流れをみてどのように感じましたか?
事故当時の報道について質問する理由は、動画サイトなど調べたのですがニュース動画が1つ2つしかなかった為です。
お時間あればレスお願い致します。
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私は事故当時まだ小さかったので、事故の悲惨さは分かりませんでした。
タグにあるように、当時はブラックボックスの全てが公にしてもらえなかったので、一部の会話のみで判断され機長にかなり非難がいったようです。
数年前ブラックボックスがやっと公になってから、機長は最後の最後まで乗客を守るべく操縦していた事が分かりました。
機長家族の話もドラマになりました。
あとは現地の方だったか、当時の出来事を本にしていました。
この本読みましたが、本当に悲惨な事故だったようです。
題名は忘れてしまいましたが、気になるようでしたら探してみてください。
忘れられないのは
斉藤慶子ちゃんが言った言葉
『助けて~』
『痛いよ~』
周りから沢山の声がしてたのにいつしか聞こえなくなった と。
彼女が救出されたのが朝の5時前
機長はマニュアル通り被害を最小限にと・・・
しかし
場所が悪かった
この事故機は、いわくつきの機種で、この墜落事故の前に2回滑走路に接触事故を起こしていて、'78年の通称しりもち事故(離陸時に機首を上げ過ぎたため)尾翼と圧力隔壁を滑走路にぶつけてこの際の修理の不完全な溶接痕から金属疲労が発生し、圧力隔壁が空中分解し墜落に繋がったとされる見方が強いね。この他にもこの機種は'80年代に離陸時に千歳空港で第4エンジンを滑走路に接触させる事故を起こしているけどこの事故は第4エンジンのみのダメージで取り替えて居るから直接の事故原因ではない模様。いずれにしても航空機史上最大の約520名の命が失われ4名が生存すると言う大惨事でした。先日の日本航空航倒産のテレビ番組でも、日航の歴史の中でこの墜落事故に触れて居たけど、遺族によれば日航職員はあれだけの大惨事を起こしておいてどこか人事で、謝罪意識に掛ける親方日の丸的な傲慢さがあったとこの事故を振り返っていたけど、日航に望むのはこの悲劇を忘れずに空の安全に勤めてもらいたいと言う事だね。
日航ジャンボ機墜落事故で検索すればWikipediaで123便のが見れまして、項目の中に報道についてとあって、NHK、民放各局の報道体勢が細かく書いてますよ、ご覧あれ。
なんでも民放で唯一すぐニュース特番に切り替えず月曜ドラマランドを普通に放送してから事故報道をしたフジテレビに視聴者から抗議殺到、月曜ドラマランドは過去最低の視聴率、とあった気がする。
そういえばあれももはや主さんの産まれる前の事件なんだ…
No.6の匿名さん❗
斉藤慶子ちゃんじゃなく
川上慶子ちゃんじゃないですか?
私は中学生でした。
当時、和田アキ子と誰かが司会で毎週月曜日夜8時に、日テレでトップテンっていう生の歌番組がありました。
その日、普通に番組始まったんですが、和田アキ子が、日航機が消息をたったっていうニュースがあるそうです、心配ですね…って言っていたのを今でも覚えています。
新聞には亡くなった方の名前がすべて載りました。
あるスイス航空のベテラン機長の言葉です。
『操縦席の警報ライトがクリスマスツリーのように点滅し、警報音が操縦室に響き渡っている時、123便の機長はまず計器の故障を疑ったであろう。長い飛行経験を持つ機長ならば、それまでに何度となく、計器の誤警報を経験しているからだ。
しかし4つある油圧系統が現実にすべてダウンした現実に直面した時、そこに残されているのは絶望しかない。そのような状態で飛行機を飛ばすマニュアルなど存在しないのだ。
ところが日本ではマスコミのみならず元パイロットという者までもが、そのような状態に陥っても地上の誘導で着陸が可能であった筈だなどという意見を述べているが、これらはまったく思い上がったナンセンスな意見だと言わざるを得ない』
改めて123便の乗客・乗員の皆様の、ご冥福をお祈り致します。
13さん
そうでした
川上慶子ちゃんですね
看護士になりたいと言ってました
当時は
✈傾きながら山に突っ込み炎があがった目撃証言は多数あったのに いつまでも消息不明の説明ばかりでした
確認とれるまでは発表できないジレンマに苛立ちました
生存者4人のうち、当時中学生だった川上慶子さんだけが、やたらと悲劇のヒロインとしてマスコミにいいように祭り上げられていたという印象があり、見ていて痛ましかったです。
勝手にファンクラブとかを作ってご自宅前に押し掛けて不届きな輩もいたそうですね。
他の三人はかなりプライバシーを守ってもらっていたらしいですが。
ご家族も失い、依る辺ない身の上となったまだ未成年の彼女を、社会は、守ってあげるどころか、いいように利用したのでしょう。話題性、ニュース性のために。
もう少し社会からガードしてあげて欲しかった……。
事件からしばらく経ち、もう一度JAL123便墜落は何が原因だったのかを調べてみたくなり《御巣高山の謎を追え》という本を読みました。
その本には独自検証した付録DVDがあり、JAL123便の航跡や機長と副機長とメカニック?のコックピットでのやり取りが収められていました。
録音からはその場の緊張感がとても伝わりました。まさに修羅場です。全ての油圧が効かなくなり、あの巨体を手動で操縦してたのですから。
垂直尾翼を失ったために、斜めに飛んでいるからかヒュー‥ヒュー‥といった風切音が断続的に聞こえていました。
ピコピコ…といったコックピットに鳴り響く警告音。機長らクルーの怒号。
垂直尾翼が無くなったが、どうして無くなったか圧力隔壁説がありますが謎のままです。
ただアメリカ軍が墜落地点を正確に伝えるも、日本政府の初動が遅かったのは腑に落ちないです。
🙏
You Tube で当時の墜落事故検証番組や臨時ニュース、ブラックボックスの音声記録など見れます。本も何冊かでてますのでお読みになって下さい。
あの機体では誰が運転しても墜落は免れなかったらしいです。羽田の事故啓発センターには様々な遺品や機体の残骸が展示してあります。
「ドーンと行こうや」は、思いつく限りのやるべきことはやりつくし本当になすすべがなくなった機長の死を覚悟した心の叫びだと思います…
あの日不幸にも事故機乗り合わせてしまった全ての犠牲者の方のご冥福をお祈りします。
123便
お亡くなりの乗客乗員の皆様
そしてご遺族の皆様
今もご冥福をお祈り続けております
永久欠便番号 123便
尻もち事故 他1件
油圧隔壁
ダッチロール
ボーイング社
事故調査(官)委員会
事故機体
>> 11
本気で知りたいなら自分で図書館行って当時の報道された新聞を調べるなり、したらいい。
興味本位な、意見をこんな掲示板で知ろうと考える主は、ど…
レスありがとうございます。
図書館にて調べたのですが、さすがに当時のニュース番組などの状況については記載されていませんでした。
決して興味本位ではなくスレ中にも書いた通りきちんと調べたつもりです。
ちなみに、私にそのように言われるのなら11様なりの事故へのレスを知識を含めてしていただきたいです。非難は簡単です。図書館で調べろというのも簡単でしょう。しかし、それは調べた者が言うべきだと思います。11様は恐らく私よりも多くを調べていると思いますので、是非教えていただきたいです。
図書館で私は調べましたが、やはり記事の内容では、当時世論を操作したであろうマスコミを批判するような内容は新聞には書かれていませんでした。それは新聞なので当たり前だと思います。このように図書館での調べでは考えが偏り情報操作にあう可能性が高くなります。
ですので、私は皆様の各々意見を聞きたくスレをたてました。
11様の事故に対する再レスお待ちしています。
すみません、皆様のレスは全て見ているのですが今から深夜アルバイトですので、アルバイト後に、お一人方お一人方にお礼致しますので、今暫くお待ちいただけると有り難いです。
では少しの間ですが失礼します。
あれから四半世紀。早いですね。当時、自分は高校の夏休み。夕方に少し眠った後自室でテレビを付けて???と思いました。テレビのほとんどが特別ニュースでジャンボ機の消息不明をリアルに伝えていました。家族で大変な事が起きたと話しながら当時、久米宏のニュース・ステーションを見守ったのを覚えてます。消息を断つまでの詳細、断ってからの時間、状況を考えると最悪の結末になる事を予想した方は多いと思います。考えてみれば日航はあの時から全く会社の体質は変わってないようですね。大組織全体に根付いた社風は幻影的、抽象的で捕らえどころがなく、自浄はまず無理ですし時に外部の冷淡な英断に頼る以外に変える事は難しい。ふとあの夏の悲劇を思い出しました。
私は当時小学生で、夏休みで、祖母の家にいました。
「クイズ100人に聞きました」を見ていた時にニュース速報が流れました。
親戚一同が皆寝ずに、夜中に流された乗客名簿を黙って見ていた記憶があります。
大人達は、知り合いが乗っていたらどうしようかと思っていたそうです。
題名は定かじゃないですが、当時の警察の方が克明に書いた本があります。
確か上下巻ありました。
飛行機が落ちた時の目撃談や事故現場を探して歩いた様子、遺体を回収した時の様子、遺体をご遺族に確認してもらう時の苦労、…とてもショックを受けました。
事故の様子、そんなに知りたいなら、主さんも自分で探してみてください。
姉の担任の先生方が修学旅行の下見の帰りに乗って三人亡くなりました。
私も一緒に家族の方々がお帰りになるのに参りましたが、教え子の方達の泣き声の中、小さい子供さんの手をひく奥様の姿は忘れられません。
私はこの事故をリアルタイムでは知りませんが、この事故をそれなりに勉強しました。
何せ地元でして、救助活動・後方支援等に関わった近所の方たちもいますので。
情報が錯綜し行政の初動救援体制が遅れる中、墜落現場へ一番に駆け付けたのは地元消防団の方たちでした。
そして目にした現場の状況等については行政等からきつい箝口令がひかれており、今でも当時の消防団の方たちが憤っている事実です。(その後の検証等で大概は明らかになったそうですが。)
隠さなければならない事実がそこに(現場に)あったのでしょうか?
また、主さんがどの程度にこの事故を勉強しているかは分かりませんが、内容の性質上からも慰霊碑への参拝をお勧め致します。
13さん
詳しくないです。本の名前も正しくは『御巣鷹の謎を追う』でした。スミマセン。
あれは事故だと思いますが、ただ事故後の対応の遅さに不信感が募りますね。
迅速に当たれば助かった命もあったのではないかと…
一度テレビで見ましたが… みんなの命を必死で守ろうと最後まで 戦ったコックピットの人たちの 壮絶なる戦いと その収容された遺体の悲惨が放送されてました 特に機長は その 下顎の骨だけが見つかり それも 過去の歯の治療痕から 確認できたと言われてます。 最後まで諦めることなく勇気を持って戦いつつも 最後の あ~ダメだ… の言葉は 胸を締め付けます。 可哀想なんて 言葉では とても 言い表せませんね💦
あの日は月曜日でしたが、夏休み中でしたから子供さんも多く乗ってましたよね。
家族連れが多かったと記憶しています。
ホントに恐ろしい事故でしたね。新聞に載った多数の乗客者名…あの紙面のものものしさは忘れられません。小さな子がたくさん犠牲になって…
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