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悩める人( 32 ♀ )
13/05/04 06:30(更新日時)

NHK大河ドラマ『八重の桜』を観ているんですが、会津藩の藩主の松平容保の義姉(たしか二人とも前藩主の養子のため)が一度豊前だかに嫁いで後離縁して、会津に出戻っていますが…

松平家のお姫様が正室として興し入れして夫と死別でもなく戦で敵味方になったわけでもなくなぜ離縁した?された?のでしょうか?

子供ができなかったとしても側室にできているので問題ないわけだし…

幕末とはいえ御家と御家の格式を重んじる婚姻であるはずですが、現在の我々のように性格の不一致とかで自由な離縁とかだったんでしょうか?

ドラマではやけに照姫が義弟の藩主容保を想っている雰囲気で、違和感があるんですが…

どなたか照姫がなぜ離縁して出戻っているのか理由が分かる方いらっしゃいませんか?


No.1945385 13/05/03 22:38(悩み投稿日時)

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No.1 13/05/03 23:15
通行人1 ( 30代 ♂ )

照姫は1850年、18歳の時に豊前中津藩1万石の藩主奥平昌服(20歳)の正室として嫁ぎ、その5年後の23歳の時に離縁して江戸の会津藩の屋敷に戻ったとされています。離婚の原因は、今のところよく分かっていないのが実情です。昌服との仲は睦まじいと伝わっているので、今で言う性格の不一致とは考えにくいです。ただ、1852年に養父である会津藩主松平容敬、1855年には昌服の祖父奥平昌高が死去したので、当時は迷信が幅を利かせているご時世なので、「不吉」とか「藩に不幸をもたらす女人」として気味が悪い空気が中津藩内にあったのが原因かもしれませんね。

おまり知られていませんが、ちなみに戊辰戦争での会津・鶴が城攻防戦では、照姫が鶴が城内に立て籠もり、前夫である奥平昌服が新政府軍の攻撃軍の中津藩の大将として参加していました。

No.2 13/05/03 23:56
お礼

>> 1 ありがとうございます。

嫁ぎ先の祖父が死去した年に離縁しているんですね。
たしか幅をきかせていた偉大な祖父様だったような…

迷信が原因は頷けます。

照姫が鶴ヶ城に立て籠り最期まで皆を励ましたり介抱したりして慕われていたのは知っています。
容保の正室が既に死去しているので会津藩で一番身分の高い女性は照姫であり出戻りではあっても皆に敬われていて、照姫も会津のためまた容保のため最期までよく尽く支えましたよね。

薩摩と一緒になって照姫の前夫が鶴ヶ城に攻めてきたのは照姫をネットで検索した時に知りました。
でも離縁の理由がまったく書かれていないので、不思議な気がしました。

出戻られてさぞや肩身の狭い思いをされたのでは?と思われがちですがそんな感じではなく会津の人たち皆から敬われ慕われていた印象ですし、藩主の容保も優しく丁重に迎え入れ仲が良かった感じですね。

照姫は少しでも容保の役に立ちたい様子で実際最期近くはかなり支えたのではないでしょうか。

迷信…不吉とか当時はあったかもしれませんね。

ありがとうございました。

No.3 13/05/04 00:04
通行人3 

家の格式と言っても、夫(元夫)昌服の祖父昌高は薩摩島津家ですから、松平家の養子である照を大事にする理由は特に無かったのでは?
(島津家は松平家とは戦国時代から延々と仲が悪い)

離縁した理由は明らかではありませんが、江戸時代初期~中期とは違いますから、幕末期の離縁は珍しいことではありませんね

No.4 13/05/04 00:14
お礼

>> 3 ありがとうございます。
島津家は松平家と並ぶほど格式高いのですか?
勢力はあったけど血筋的には格下かと。
江戸時代はなんといっても徳川、松平なんじゃないですか?
幕末はそうでもないんですかね…

No.5 13/05/04 00:47
通行人3 

>>4
主さんは格式に拘っていますが、それは島津家には通用しない考え方です

薩摩島津の侍は、唐芋侍と呼ばれて田舎者扱いされているのは百も承知

それでも徳川(松平)を嫌う反骨心があるのは、自分たちは天子さまの臣、つまり幕府ではなく天皇家こそが主、という考えが根強いからです

これは薩摩に限らず、西側の勢力はほぼ同じです

ですから、徳川の世と言っても、長い物に巻かれたままを善しとはしないのが島津家です

江戸時代になってから、薩摩に入った隠密(密偵のこと)は生きて帰れない、といった話もあるくらい、徹底した排他主義でもあります

借金まみれで商人に首根っこをつかまれた、幕末の徳川家や松平家を軽んじるのは当然の流れで、島津家の家柄である元夫の家中では、松平の格式などは通用しなかったと思います

No.6 13/05/04 05:07
サラリーマンさん6 ( 40代 ♂ )

離縁理由は 1さんが言われる通りと思います。
照姫は 写真も残ってますが、かなり美貌の人で、また書、茶道、和歌などに秀でた女性で 容保も手ほどきを受けたと言われています。
二歳下の養子の身でもある容保が憧れて頼る存在だったことは 想像できます。
また、容保が 孝明天皇から贈られた陣羽織を着た写真を照姫に贈ってますね。この陣羽織は 容保が終生、宝物としていたもの。
容保の誇らしく、また喜びを照姫に伝えたかった気持ちが伝わります。
私は 容保に照姫への想いは有ったと思います。
会津藩の奥向きを 照姫に任せたのも、その表れだと思います。
そんな感じで、大河ドラマの表現には 好ましく観ています。

No.7 13/05/04 06:10
お礼

>> 5 >>4 主さんは格式に拘っていますが、それは島津家には通用しない考え方です 薩摩島津の侍は、唐芋侍と呼ばれて田舎者扱いさ… あー、そうだったんですか。
だから篤姫も生まれたんですね。

勉強になりました。ありがとうございます。

No.8 13/05/04 06:30
お礼

>> 6 離縁理由は 1さんが言われる通りと思います。 照姫は 写真も残ってますが、かなり美貌の人で、また書、茶道、和歌などに秀でた女性で 容保も手… ありがとうございます。
容保のあの有名な写真は照姫に送ったものだったんですか。
ドラマでも若くして亡くなる容保の正室が照姫に容保を託して逝く場面があり、照姫が私が出戻ったばかりにと涙を流して謝罪していましたが自分の容保への気持ちを容保の正室は知っていて悩まれていたのにそのことに気づかず申し訳なかったというシーンだったと解釈してましたが、逆で自分の存在が邪魔をして容保の気持ちが正室に向かず申し訳なかったという謝罪のシーンだったんですね。

容保も夫らしきことを何一つしてあげられず可哀想なことをしたと謝罪していて、そこで照姫が『私の咎にございます。』とかなり贖罪を表す演技だったので不思議な感じがしました。

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